第二話 春川理容店 いつも空いてる指定席

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◇◇  木曜日の夜――    秋山宅では一人息子の翔一が寝静まった頃合いを見計らって、亮二と美香の夫婦がリビングで向かい合って座っていた。    互いに思いつめた表情を浮かべて押し黙っている。    そんな中、先に口を開いたのは美香の方だった。     「あなた、お話ししたいことがあるの」 「ああ、俺もお前に話しておかねばならんことがあったからちょうどいい」 「じゃあ、あなたから先に話してちょうだい」 「いや、お前から先に話してくれ……」  互いに牽制しあっているうちに、再び重い沈黙がただよい始める。    そして再び口を開いたのは美香の方だった。     「明日……あの子の予約取ったから……」  亮二はうつむいていた顔を上げて妻を見つめる。  しかし以前と違ってその眼光は悲しい色を映しており、何かを哀願しているようであった。     「あいつ風呂の中で楽しみにしてたぞ……。明日はりゅっしーに会えるんだって」 「そう……。知ってたのね……」 「ああ、さっき知った」 「だったら話は早いわ。許してちょうだい。あの子がおじいちゃんの最後のお客になることを」  美香の言葉を最後に、みたび沈黙が流れる。    そしてしばらくした後……。  次に沈黙を破ったのは、亮二の方だった。     「……そんなの許せるはずないだろ……」  と――     ◇◇  私、神崎若葉と吉太郎おじさんは、吉介おじいちゃんに黙ったまま、『三番』の席の予約を取ることを画策した。    そこで火曜日に秋山翔一くんのお母さんである美香さんに直談判しにいった私は、直角に頭を下げると大きな声で頼み込んだ。     ――金曜日に翔一くんの髪を春川理容店で切ってくれませんでしょうか! その日、私はりゅっしーになって翔一くんに会いにいきます! お願いします! 吉介おじいちゃんのためにも、ご協力ください!    その時はてっきり断られるとばかり思っていた。それでも粘り強く頭を下げ続けるつもりだったのだ。    しかし、意外にもあっさりと首を縦に振ってもらえたのだった。  恐る恐る理由を聞くと、美香さんは目に涙を浮かべながら答えてくれた。     ――私もずっと心にしこりがあった状態でしたから。これで少しでもみなさんの止まっていた時間が動き出せるなら、なんでも協力いたします。  と……。    その言葉を聞いて私ははっとした。     ――そうか……。きっとみんなたった一歩前に進めなくて、辛い思いをしているんだ……。  私が口を真一文字に結んでもう一度頭を下げると、美香さんは涙をふいて笑顔で言った。     ――午後六時ごろにおうかがいします。よろしくお願いしますね! あの子、絶対にりゅっしーと会えるのを喜びますから。夫は反対するでしょうけど、私が説得してみせます! 神崎若葉さん、本当にありがとう!  その言葉はすごく力強くて、今度は私の目に熱いものが浮かびそうになる。  それをどうにか抑えると、私は「こちらこそありがとうございました!」と一礼してその場を去ったのだった。      こうして迎えた金曜日――    パパに事情を話した私は、りゅっしーの着ぐるみを商店会から借りて、理容店から少しだけ離れたところで中へ入った。  梅雨前の夕方は少しだけひんやりする。  そのため、過度な運動をしなければ少しだけ長い時間着ぐるみの中に入っていても問題はなさそうだ。      西に陽が傾きかける中、私はゆっくりと歩き始めた。      オレンジ色に染まる商店街を見つめながら、考えていた。  どんな人生にだって思い出はある。  その思い出が、哀しみの色だけで染まったままで良い訳はないもん!    喜びの色も混ぜるべきよ!    哀しいことも、辛いことも、嬉しいことも、楽しいことも……。  全部が色になる。  そうやって、思い出はいろいろな色が混じり合って、最後は虹色になると思うの!    だから私は、吉介おじいちゃんにも、吉太郎おじさんにも、亮二さんにも、美香さんにも、翔一くんにも、そして天国できっと見ていてくれている翔太くんにも、明るい色を届けるんだ!      それこそ私がりゅっしーでいる意味だから!!      早くも店じまいをし始めた吉介おじいちゃんの前に立った私。  おじいちゃんは「おまえさんは……」と口をぽかんとして、私を見つめている。    そして右手に持っていた冊子をおじいちゃんに差し出した。   「これはなんだい?」  と、おじいちゃんは首をかしげながら受け取った。  しかしその冊子を一目見た瞬間から、大きく目を見開いたのだった。     「これは……『三番』の席の予約帳……」  私はりゅっしーだ。  だから言葉を使わずに、ただうなずくことしかしなかった。     「なぜこれをおまえさんが……? いや、それはいいんだ。どうして私に……?」  中を読むようにジェスチャーで伝える。  するとそれが通じたのか、おじいちゃんはパラパラと予約帳をめくりはじめた。     「……どうせ何も書かれておらんよ。だって、あの席は……。えっ……そんな、馬鹿な……」  おじいちゃんの言葉を奪ったのは、一番最後のページ。    つまり『今日』の予約だ。    そこには確かに書かれていたのだ、「秋山翔一」という名前が――      次の瞬間、おじいちゃんは顔を真っ赤にして私に詰め寄ってきた。     「何様のつもりだ!! こんなのあり得るわけないだろ!! じじいをこけにしてそんなに面白いか!! 答えろ!!」  それでも私が一言もしゃべらなかったのは、りゅっしーだからだ。  いや、そんな表面的な理由なんて、ここではどうでもいいことだ。    本当に大切なことを伝える時は言葉なんて必要ないだけ、なのだから――     「わあっ! 見て、見て! りゅっしーがいるよ!!」  聞こえてきた少年の声に、赤かったおじいちゃんの顔が今度は真っ青になると、彼は大きなりゅっしーの体の影からこっそり覗き込むように、その声の持ち主の方へ目を向けた。  私はゆっくりと振り返って、少年に手を振る。  その少年は、秋山翔一くんだ。   「わあっ! 僕に手を振ってくれたよ!」  そして翔一くんの隣にいたのは、秋山翔太くんが最期の時まで想い続けた、かけがえのない人……。      亮二さんだった――      手をつなぎながら、一歩また一歩と踏みしめるようにこちらに近付いてくる二人。  どうやら美香さんは一緒に来ていないようだ。    いよいよ私から二歩手前までやってくると、亮二さんが息子の手を離した。   「わあっ! りゅっしー!」  ぼふっと翔一くんが私に抱きついてくる。  私はそっと翔一くんの髪をなでた。    一方の吉介おじいちゃんと亮二さんは向かい合って、互いを見つめていた。    日曜日は殺気すらただよわせていた亮二さんの瞳は、今はまるで凪の日の湖のように穏やかだ。    そして、彼は重い口を開いたのだった。     「今日の翔一の予約ですけど……。キャンセルさせてください」  透き通った声が響いた瞬間に、場の空気が鉛のように重くなる。  あきらかに落胆した様子の吉介おじいちゃんの顔が目に入るだけで辛い。      でも、私は信じていたの。    人は、人が幸せになることを、いつも願っているものだって。    そして、誰かとずっとつながっていたいんだって。    だから亮二さんの次の言葉は……。      きっと前に進むためのものだって――       「空いたところに、入れて欲しいんです……」 「えっ……?」 「秋山亮二って名前を……」 ……… ……  お兄ちゃんは言ってた。    いつまでも『ゼロ』の関係ほど寂しいものはない。  『一』を少しずつ積み重ねていけば、きっと『百』にも『千』にもなるはずだと。    今、目の前で髪を切り、髪を切られている二人は、『一』の縁を結ぶため、必死に「自分の心を許す戦い」へ挑んでいるのだろう。    いつもお客と温かい言葉を交わす吉介おじいちゃんが、無言のまま手を動かしている。  亮二さんは、鏡ごしに写っているおじいちゃんの姿をじっと見つめていた。    でも二人の間に会話がなくても、互いに心を通わせているのは、二人の優しい瞳を見れば明らかだった。      そうして二〇分ほどした頃。     「おつかれさまでした」  というおじいちゃんの声が店内に響き渡った。  同時に、さっぱりした髪型に変わった亮二さんが静かに席から立ちあがる。     「ありがとうございました」  と、彼はおじいちゃんに向かって小さく頭を下げると、ゆっくりと私と翔一くんがいる待ちあいスペースの方へと近付いてきた。     「お父さん! 聞いて、聞いて! 僕、りゅっしーとゲームしたんだよ!」 「ああ、よかったな」  すっかり父親の顔に戻った亮二さんは、ふと息子から私の方へ目を向けると、ニコリと微笑んだ。     「りゅっしーにも礼を言わなくちゃいけないね。どうもありがとう」  私は「りゅっしーは日本語が通じない」という設定のことなどすっかり忘れて、亮二さんへ一礼した。  もちろん亮二さんはそのことに何を言うはずもなく、カウンターまでやってきたおじいちゃんを相手に会計を済ます。  そして、再び翔一くんの手を取った。     「さあ、おうちへ帰ろうか。お母さんが夕飯を作って待ってるから」 「うん!」 「今日は翔一の好きなハンバーグだってさ!」 「うわあっ! やったぁ!!」  どこにでもありふれた会話をしながら扉に手をかける親子二人の背中を、私は見つめていた。    これでよかったんだ。  みんな一歩だけ前に進むことができたんだ。    そんな風に思えてならなかった。      でも、まだ前に進めていない人がいたのだ――     「お待ちなさい」  とても優しい声が店内に響き渡ると、全員の視線がその声の持ち主に集まった。    カウンターにいた吉介おじいちゃんだった。    彼は小さな箱を二つ手に取ると、亮二さんの前までやってきた。  そして彼にそれらを差し出した。  それこそおじいちゃんにとって、一歩だけ前に進むことだったのだ。     「これは……?」 「翔太くんが……あの日、君に渡したかったものだ」  亮二さんが二つの小さな箱を受け取る。      そのパッケージに書かれていたのは『キャラメル』の文字だった――      それを目にした瞬間に、亮二さんの肩が小さく震えだすと、目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ち始めた。     「お父さん? 泣いてるの?」  無意識のうちに、私は翔一くんの手をとって理容室の外に出た。     「ねえ、りゅっしー? どうしたの?」  純真な目で私を見つめて問いかけてくる翔一くん。  しかし私はなにも答えなかった。    いや、答えを知らなかったのだ。  なぜ自分の体が勝手に動いて、彼を優しく抱きしめているのか。    ただ、一つだけ言えるのは……。  理容店の中で三〇年分の涙を流す亮二さんと吉介おじいちゃん。  今は二人きりにさせてあげること……。    それが私にできるここでの最後の仕事だということ――     ◇◇  翌週の金曜日の夕方――  春川理容店の『三番』の席は予約で埋まっていた。    その席に座っているのは小学二年生の男の子。  待ちあいスペースでは彼の両親が雑誌を読んで待っている。   「おじさん! よろしくお願いします!」 「はい! よろしくね、翔一くん! じゃあ、さっそく始めようか」  中年の理容師がにこやかに告げると、男の子は満面の笑みを浮かべたまま、大人しく鏡を覗き込んでいた。     「ねえ、知ってる!? キャラメルって当たりつきなんだよ! 僕ね! この前、当たったの!」 「そうか、そうか。それはすごいね!」  鏡ごしに理容師とお客が笑顔で会話を交わす。  こうして春川理容店では、今日も『一』の縁が結ばれていくのだった――      第二話 春川理容店 いつも空いてる指定席 (完)
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