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びっくりした俺は身を引こうとするが、縫山は離してくれない。
「ちょっと、なにしてんだ!離せよ気持ち悪い!」
ぎゅうぎゅうと力を入れられ、その腕からなんとか脱出しようとしても、縫山は見た目に似合わず力が強い。何事かと視線を上げれば、嬉しそうな彼の笑顔がすぐそこに見えた。
「初めてただいまと言ってくれましたね、倉持くん」
歓喜に満ち溢れた声色で縫山が言う。俺は一気にくすぐったい気持ちに陥ってしまった。何なんだよ、何でそんなに嬉しそうなんだよ。そう思いながらも、俺は彼の温かい腕の中、抵抗をすることを諦めた。
確かに今まで一度も、彼の「いってらっしゃい」にも「おかえり」にも、俺はちゃんとした返事を口にしたことはない。フリーズしてしまうくらい喜ぶ程、縫山は俺の返事を待ちわびていたと言うのだろうか。それならそうと言ってくれれば良かったものを、と考えかけて俺は首を振る。何を考えているのだ。縫山が何をどう思おうと、俺の知ったことではない。ああ、いやだ。俺は絶対こいつには振り回されたくはないというのに。だから勝手に上がり込んできたこいつに対して、あれやこれやと悩むのを止めたというのに。
けれど結局のところ俺は翌朝、いってらっしゃいと手を振る縫山に、ちゃんと「いってきます」を口にした。その度に縫山が死ぬほど嬉しそうに笑うので、俺は何となく、これから挨拶を返すのを欠かさないことを、小さく心に決めたのだった。
「嬉しげに笑ってんじゃねぇぞ不法侵入者」
「じゃあ通報してみたらどうです?」
「そうだな。ってお前、他人から見えねぇだろ。その手には乗るか!」
縫山のカーディガンがかかった肩を小突いた。それは恥ずかしさを誤魔化す為の、浅はかな行為だった。何だって何をするにもこんなにも照れ臭いんだ。ずっと一人で暮らしていた俺は、馴れ馴れしい同居人がいるというくすぐったさにまだ慣れない。
縫山が俺の部屋にやってきてから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。
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