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一匹の蜂が教室に飛び込んできた。親指ほどはありそうな雀蜂で、低い羽音を響かせながら迷い込んでしまったことに困惑している様だった。
教室には静かな混乱が生まれた。最初に気づいた者の小さな「あ」と言う一言からざわめきが広がった。雀蜂が彷徨って頭をかすめるように飛ぶと男女問わず小さく悲鳴が上がった。
そのような状況でも古典の担当教師である山本は「ああ蜂ですか。何もしなければ問題ないので気にしないようにね」とだけ言い、すぐ板書作業に戻っていた。黒板としか繋がりがないように振る舞う姿は小さかった。
生徒たちは不安そうに蜂を眺める。自分の方に飛んでこないかとびくびくしている。誰もすべての窓を開け蜂を逃がそうともせず、叩き落そうともしない。
蜂は光を求めて彷徨ってた。電灯にコツコツとぶつかっていたと思うと、急に向きを変えて窓の方へぶつかり出す。
蜂の出口の見えない迷走はニ十分経っても終わらなかった。最初に蜂が飛び込んできたときは全員の視線が注がれていたが、今は自分の近くに来た者だけがちらちらと見る程度だ。
蜂が皆の頭上を飛び回る時、その瞬間は皆が平等に蜂を恐れた。苛める者も苛められる者も、恋をする者もせぬ者も、運動に勉学に打ちこむ者も平等に頭を下げ避けていた。
私は蜂が人の上を飛び交う瞬間に、とても正しい世界が生まれているように感じた。何者も蜂に対しては無力であり無視することも許されない。自らの世界に籠ることも暴力で抗うことも許されない。私は蜂がいない世界の方がよっぽどおかしいのではないかとすら思えてきた。
今ではその蜂は外が恋しそうに窓を歩いている。うろうろと窓を歩いたかと思うと、細い足でガラスを掻いている。先ほどまで毒針と飛行で空間を支配していたとは思えないほど心細そうだ。
私は心の中で、蜂にもう一度教室を飛び回れと密かに願う。もう一度全員の頭の上を回った後に外へ出ればいい。他の窓を開けてやってもいい。もう一度だけ飛んでくれないか。私は小さな祈りを繰り返す。
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