Fin.那由多の夜

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きっかけは陳腐だった。葬儀屋という薄暗い仕事の全てが嫌になって衝動で間違いを起こしてしまいそうになった時、由多の書いた詞を聞いた。今となってはメロディすら思い返せないが、鮮烈な言葉だけは今でも耳に残っている。 俺は、作詞家の由多に救われた。救われた分だけ、返そうと思った。 だが自分にできる仕事を終えた俺は、全くの部外者として座布団の上に座っている。他人だ。赤の他人。それは居心地も悪い訳だ。 「あなたの名前を教えてください」 頭の中で彼の声がする。不思議となんだか笑いそうになる。 焼香は済んでいた。だからもうここにいる理由は一つもなかった。 靴を履いて、外に出た。久々の開放感と眩しさに頭がクラクラした。 背伸びをする。息を吐く。吐いた空気は春の始まりを過ごした都会よりずっと透明に感じる。うっすらと碧い山並みも見える。 それにしても俺は、救いようの無い馬鹿だ。他人の葬式のために、わざわざ金沢まで来てしまうのだから。 胸の中の線香の香りも空になったところで、夢から醒めたみたいに途方もない空々しさと虚しさが胸に流れた。澄んだ空気のせいか、気道が涼しくて適わない。
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