2.星の届かないところで哲学

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勢いよくガラス窓を開ける。途端、ぶわっと冷たい風が四畳半を抜けた。干しっぱなしのくたびれたシャツの裾が開く。 「お願いします」 タールの重い煙草を咥えた葬儀屋は、ぎょっとした顔で僕を見る。その反応から、昨日までの僕なら食い下がらなかったことが明白だ。 「なぜ急にそんなことを言い出す?」 「僕は作詞家だったんですよね」 それは日記に書いてあった、僕の情報だった。 葬儀屋は一瞬言葉を詰まらせる。再び口を開くのに、そう時間はかからなかった。 「そうだ。文壇、音楽界、文化賞……天才少年の与那原 由多は、どこでも引っ張りだこだったよ」 真っ白な記憶で目覚める時、葬儀屋は僕を天才くんと呼んだ。それは彼なりの嫌味だったのだ。 「僕、次から次へと言葉が浮かんできて苦しいんです。この四畳半じゃ、消化なんてできない」 「天才特有の崇高な悩みですか」 「なんと言われても構いません」 今朝の僕は、段ボールの底に潜っていたCDを聴いた。本に書き留められた詩を読んだ。僕の名前が連ねられているのに一切覚えの無いそれらは、どれも僕を満たしてはくれなかった。 僕は行きたい。生きてみたい。まだ知らない外の世界を。 煙を一層深く肺に吸い込んで、葬儀屋は呟いた。 「俺がなんで葬儀屋って名乗るか、わかるか?」 「いいえ」 「依頼元の故人を、ちゃんと葬ってやれるようにだ」 ここでの葬るとは、成仏、お迎え、天国、例えばそんな言葉で表される行為を指している。彼は淡々と説明を続けた。 「お前が悲観して自殺なんてせずに、ちゃんと生きていける確証を示せれば、お前の家族……つまり俺の依頼人は、未練を持たずにあの世へ行けるんだ」 それが葬儀屋の仕事であり、彼が大きな欠伸を数え切れないほど零しながらも、此処に留まる理由。 それならば、話は早い。僕は口を開く。 「外へ行きたい。それが僕の、今をちゃんと生きるための理由だ」 僕は笑う。葬儀屋も不機嫌なりに少し笑う。 「人があまり出歩かない夜なら、な」 嗚呼。僕の過ごせる時間が夜だけになるという予想は、思っていたよりも早かった。
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