2.星の届かないところで哲学

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まだ冷たい春の夜空に呼吸を吐く。わずかな水分を孕む風がそれを洗っていく。 「それで、気分はどうだ?」 「思ったより感動は無いですね」 「帰るぞ」 「嘘、嘘です。ごめんなさい。……悪くはないですよ」 暗闇にざわめく公園。波打つ噴水。白いスニーカーは引力を嫌う。水面に浮かぶ葉を掬い上げる。 夜の街には、人ならざる葬儀屋と僕しかいなかった。 「那由他」 何気なく泳がせた言葉に、葬儀屋が振り返る。眠たそうな目が、不自然に見開かれていた。 「自分の名前を知った時、思い浮かんだんです。この言葉が」 那由他。それは想像を絶するような大きな数字の単位。零が72個も続く。天文学的数値とも言える。僕という星の軌道が、誰かのそれと重なる偶然中の偶然。奇跡的な出会いは、孤独と紙一重だ。 僕たち人間は知るべきことが多いから、時に苦しくなる。記憶なんてリセットしてしまうくらいが丁度良いのかもしれない。 無性に浮かび上がった言葉の数々を、思うがままに歌に乗せる。 一頻り歌って、僕は涙が滲むほど笑い転げた。 「僕って、歌は下手なんですね」 「ああ、俺も初めて知った」 「でもいいや。書き残すよりも歌いたい気分だから」 ひどい音程だった。 夜更けに迷惑だと、誰かから怒られる気がしたけれど、不思議と辺りは静かなままだ。 その様子を葬儀屋が笑う。僕の全ては夜に溶ける。 この世界に果ては無くて、歩く先に何があるともはっきり言えない。そして僕は、二度と今の僕には帰れない。 それでも、僕は僕を残したい。
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