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恋花火
十五時間勤務を終えて、やっと俺はアパートに帰って来た。深夜一時過ぎ。これでも早い方だ。午前様で帰ってくることなんて、ざらだ。夏は。
狭いフローリングを通って、ユニットバスに入る。軽くシャワ―を浴び、パンツだけを履いて万年床に寝っ転がった。パジャマを着る余力もない。疲れていた。
目を閉じて、何も考えないようにすればすぐに眠れる。さっきまでの肉体労働を思い返せば、眠れない方がおかしい。
だが、一面が闇になったとたん、俺の頭に浮かんでくるものがある。あいつの顔と、声。
――俺、結婚することになった。結婚式、秋にするから、来てくれるよな?
照れているのか、あいつはぎこちなく笑っていた。
俺はショックを受けた。聞いたその場で、何で自分がショックを受けたのか分析した。
二十年来の親友に先を越されて悔しい、もしくは寂しい。周りから独身がどんどん減ってきていて、やっぱり寂しいのかもしれない。まさかこいつが結婚するとは、という意外に思う気持ちもある。とにかく一つ、わかっている事があった。結婚式に出たくない、ということ。
――ごめん。百パーセント祝福できないから行けない。
俺はとちくるって口走った。はっきりと出てきた言葉に、自分自身が驚いた。ここは嫌でも、おめでとう、もちろん出席するよ、ご祝儀も三(万)だしてやるよ、なんて言ってやるべきで。でも言えなかった。
あいつも俺の返しでショックを受けたようだった。黒目勝ちの大きな目を更に大きくして、俺を見た。何か言おうとしたあいつから目を逸らし、俺は走って逃げた。
それが三か月前の四月始めの出来事。仕事が繁忙期になるちょっと前のことだ。
あとから自分の発した言葉を反芻して、それが本音だったのだと気が付いた。
俺はあいつのことが好きだった。小学校からの付き合いだったあいつ――弘毅(こうき)のことが。結婚報告を聞いて、自分の気持ちに気が付くなんて。遅すぎる。あいつの気持ちが俺に向いているときがあったことを俺は知っている。でも、今は違う。あいつの目は、もう俺を見ていない。
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