プロローグ

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「たーつきさーん!」  語尾に音符がついて聞こえる弾んだ声で、キッチンから呼ばれた。ドア一枚隔てた寝室まで充分に響く声だが、たかだか一回呼ばれたぐらいで起き上がれるほど、飯野樹の寝起きは良くない。 「起きてください樹さん。朝飯できますよー」  もう一度樹の名前を呼びながら、足音が寝室へと近づいてくる。ドアが開いたと認識すると同時に、朝日を遮っていた遮光カーテンを開かれる。突き刺してくる朝日に眉間の皺を寄せつつ、樹はベッドの側に満面の笑顔で立つ駒井蒼馬を睨みあげた。 「おっはよーございます。朝飯できてますから、さっさと起きてください」 「あー。わかったわかった」  眠気の残るかすれた声で応え、どうにか上半身を起こす。起き上がったことを確認してから「二度寝しないでくださいね」と釘を刺し、駒井は寝室を出た。樹の起床に合わせてコーヒーを用意しているのだろう。樹のベッドの隣には駒井が使った布団が綺麗に畳まれていた。相変わらず律儀なやつだと、特にもう驚きもしなくなった頭がいつもと同じ思考をはじき出す。 (まずいな。慣れてきている……)  一人暮らしだというのに、他人から起こされることに慣れてしまっては、今後が不安だ。  寝室を出てリビングにいる駒井と適当な朝の挨拶を交わし、洗面所で顔を洗う。再び寝室に戻り、スーツのズボンとシャツに手早く着替えた。ようやく頭が覚醒してきたところで、朝の匂いを蓄えたリビングへ戻る。すでに食卓には日本の朝ごはんが整えられていた。 「今日は白身魚か」 「はい。タラが安かったんですよ。旬ですからね」 「へぇ」  この魚がタラだと言うことも、冬がタラの旬であることも、駒井に言われてはじめて知った。自炊をせず、スーパーにも行かなければ食材の旬にはどうしても疎くなる。そのことを、年下の駒井に気づかされると、自尊心を撫でられるような気まずさを感じる。だが、その気まずさもほかほかと湯気を立てる朝食の前では一瞬で掻き消えた。 「どうっすか?」  無言で食べていると、駒井が伺うように声をかけてきた。聞かれたところでいつもと同じ感想しか出てこないが、ちゃんと感想を述べるのは、作ってもらった者の礼儀だろう。 「旨いよ」 「ほんとっすか。よかったです」  駒井の作るものはどれも旨く、樹の好みにもあっていた。猫舌の樹は、他のおかずにある程度箸をつけてから味噌汁に口をつけた。
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