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撫でていた手に大きな手を重ねられ、慌てて手を離した。無意識とは言え駒井の頭をずっと撫でてしまっていた。さすがに不愉快な思いをさせてしまったかと焦るが、手を離した瞬間、駒井の目が名残を惜しむように揺れた気がした。
その時、聞き覚えのある音が聞こえ、思わず玄関の方を見た。
「帰ってきた、か」
「え、なにが?」
「隣だ。もしかしたら今、帰ってきたかもしれない」
聞き覚えのある音は、隣の玄関が閉まる音だった。駒井は、樹と玄関を交互に見比べた。
「聞き間違いじゃないっすか?」
「いや、多分間違いない」
住み始めて八年。音の聞き分けぐらいはできる。
「そうですか……」
なぜか駒井は複雑な表情で視線を落とした。
「……行かないのか?」
「行っていいんっすか?」
「いいもなにも、そのためにここに居るんだろう。荷物を返してもらってくればいいじゃないか」
そのためにここに居る。そうだ、はじめから駒井がここに居る目的は隣人から荷物を取り返すためだ。それなのに、自分から出た言葉に小さな違和感を覚えた。
「そっか。そりゃまぁ、そうっすよね……」
駒井の声は落ち込んだように沈んでいる。ゆっくりとした動作で立ち上がり、近くに置いてあったカバンを手にとった。
「戻ってくるなら、置いて行ってもいいぞ」
「いや、戻ってこないかもしれないんで、持っていきます」
そう言って玄関に向かう駒井はやはり元気がない。なぜか不安になり、樹も玄関までついていった。
「片付け、しなくてすいません」
「いや、それは別に構わない。財布と携帯、返してもらえるといいな」
「そうっすね」
玄関で靴を履き、駒井はゆっくりと樹の方を振り返った。
「でも、そうしたら最後かもしれないっすよ」
「なにがだ?」
「分かんないなら、別にいいっす」
寂しげな声でつぶやき、「それじゃあ」と駒井は頭を下げて外に出た。
閉まる玄関を見ながら、そういえば駒井を見送るのははじめてだ、と思った。
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