ワガノワの桜

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 プルコヴォ空港の中央出口、いつものベンチで松浪瑠花(まつなみるか)は母の到着を待っていた。 「ロシアの桜が見たいの」 一昨日の電話での母の言葉に、瑠花も初めは戸惑った。瑠花と会うための口実に違いないが、なぜ桜なのだろう。 「日本だともう桜は散っているけれど、ロシアなら今がちょうど桜の時期かなと思って」 ロシアの開花時期は、日本と比べるとかなり不安定で、その年の天候の影響を受けやすい。ロシアに住んで四年が経つ瑠花も、桜はまだ見たことがなかった。調べると、桜はモスクワとサンクトペテルブルクの二ヶ所にしかなく、すべて日本から寄贈されたものだそうだ。 「おまたせ。あー思ったより元気そうでよかった」 以前より少し太った母に、瑠花は微笑む。久しぶりの再会だが、瑠花にとっては嬉しさ半分、申し訳なさ半分だった。  世界一のバレエ学校であるワガノワ・バレエアカデミーに退学を言い渡されて以来、瑠花の頭には濃霧が立ち込めていた。  日本でバレエといえば、お稽古事のイメージが強いが、ロシアのバレエ学校は、一流のバレリーナを育てる職業訓練校である。その中でも最難関といわれるワガノワ・バレエアカデミーの倍率は、毎年六十倍にもなる。そんな激しい競争を勝ち抜いて入学できたとしても、無事に卒業できるのは三分の一ほどで、残りの三分の二は卒業前に退学を言い渡される。 退学の理由は様々だが、瑠花の場合は、四月末の進級試験をパスできなかった。国立のワガノワ・バレエアカデミーでは、一定の基準に満たない生徒に血税を費やすことはしない。瑠花は、その基準に達していなかったのだ。 「桜、咲いてるかしら?」 「たぶん咲いてると思う。ニュースで見たから」 桜の木があるピョートル宮殿へと向かうタクシーの中、母は他愛ない話を続ける。 「この前ね、恵斗(けいと)のために編んだマフラーが完成したんだけど、いつのまにか春になっちゃってて。いらないって言われたから、持ってきたの。ロシアならまだ使えるでしょう?」 そう言って、母はボストンバッグからモスグリーンとワインレッドのマフラーを取り出す。典型的なクリスマスカラーだ。兄が受け取りを拒んだのは、季節だけが理由ではない気がする。
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