3人が本棚に入れています
本棚に追加
……送っていくよ
ある夜、彼がそう言って立ち上がりました。サヨナラの挨拶の代わりにごめん、とひとつ謝るのが最近の彼でしたので、これには驚かされました。
冷たかった風は随分丸みを帯びて、春の気配を含んでいます。彼の数歩後ろを、私は黙ってついていきました。
……いつもごめん
ぽつりと言葉を落とす彼の後ろ姿は寂しげでした。
……いいの、好きでやってる事だから
……辛いのは俺だけじゃないって、頭では分かってるんだけど
……うん、私もまだ気持ちが追いついてない
それからまた互いに口を閉ざして、ただ歩き続けました。均等に並んだ街灯の白い光に、二人の影が長く伸びているのを見つめていました。
と、公園の前で突然彼が立ち止まりました。遊具の向こうに大きな桜の木が一本見えます。
……去年、カオリとここで花見したんだった
呟く声は夜の静けさに溶けてゆきます。二人だけの思い出は、指先すら触れてはいけないものに思えて、私はただ息を潜めて桜を見つめていました。
……まだ、咲かないね
呟きの余韻が消えた頃、私はそっと背中に声をかけました。
……もうすぐ見頃かな
……そうだね、きっともうすぐ――
もうすぐ、彼女の四十九日。私はコートのポケットに手を当てながら言いました。
……もしも――もしもカオリともう一度会えるとして、でもそのためには全てを失わないといけないのなら、会いたい?
……会いたいよ
……命を引換えにしても?
彼はこちらを振り向いて、悲しげに微笑みました。
彼が一瞬でも死に戸惑いを感じるのなら、彼女の遺言は胸にしまっておこうと思っていました。私は一生、その罪を背負い続けていこうと。けれど――
……会えるよ、カオリに
私は強く握った手を彼の方へと差し出しました。
最初のコメントを投稿しよう!