20人が本棚に入れています
本棚に追加
「そんなに怖かったのかあ」
父としては、いい経験だ、くらいにしか考えていなかった。
「雲が出てきたな」
東の山影のさらに後ろに、紫雲がわだかまっている。
青かった夜空は、一等星を残して、すでに白い。
すうっと風が抜け、湯に火照った顔を冷ます。
親子以外の宿泊客も、集まってきた。
「あのお相撲さんと入った温泉がさ、一番最初の記憶なんだ」
誰が、この世界を作ったのか。
白金の朝日が、雲を割って射した。
溢れだす光に、青と黒の世界が生き生きと照らし出される。
山すそに広がる田畑は新緑をけぶらせ、小鳥の群れがいくつも水色の空を横切った。
「今度、あれ、読ませてよ」
ざばりと立ち上がって、息子が言う。
「親父の本」
力士に会ったのは、温泉じゃなくて、スーパー銭湯だ。
父さんの本じゃなくて、短編のアンソロジー。
息子というのは、こんなに、父親を買い被る生き物なのか?
「そのうちな」
親子で朝日にまっすぐ顔を向けた。
むずむずするような恥ずかしさを、光りのシャワーが流してくれるかのように。
いつかこいつも、この気恥ずかしさを知ることがあるだろうか。
最初のコメントを投稿しよう!