父と息子の湯

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「そんなに怖かったのかあ」  父としては、いい経験だ、くらいにしか考えていなかった。 「雲が出てきたな」  東の山影のさらに後ろに、紫雲がわだかまっている。  青かった夜空は、一等星を残して、すでに白い。    すうっと風が抜け、湯に火照った顔を冷ます。    親子以外の宿泊客も、集まってきた。 「あのお相撲さんと入った温泉がさ、一番最初の記憶なんだ」  誰が、この世界を作ったのか。  白金の朝日が、雲を割って射した。  溢れだす光に、青と黒の世界が生き生きと照らし出される。   山すそに広がる田畑は新緑をけぶらせ、小鳥の群れがいくつも水色の空を横切った。 「今度、あれ、読ませてよ」  ざばりと立ち上がって、息子が言う。 「親父の本」  力士に会ったのは、温泉じゃなくて、スーパー銭湯だ。  父さんの本じゃなくて、短編のアンソロジー。    息子というのは、こんなに、父親を買い被る生き物なのか? 「そのうちな」    親子で朝日にまっすぐ顔を向けた。  むずむずするような恥ずかしさを、光りのシャワーが流してくれるかのように。  いつかこいつも、この気恥ずかしさを知ることがあるだろうか。     
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