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心の平穏を失いかけると、私は決まって店の窓辺に目を移す。そこに置き去られたツイードのキャップが、《彼》の底抜けに解放的な笑顔を思い起こさせてくれるからだ。
〈いずれ取りに戻るだろう――〉
そう思っていたのだが、《彼》の最初で最後の来店から、間もなく一年が過ぎようとしている。奇妙な印象の若者だった……。
「ここのコーヒーは本物?」
まるで満開のひまわりのような笑顔で彼は、私が営む喫茶店に入って来た。私は、かつて彼以外にあれほど鮮やかな笑顔の人物を目にした記憶がない。しかも、彼は、笑うと、かわいらしいえくぼができるのだ。
「人工物です。今は、本物を置いている店はない、と思いますよ」
「《あの星》では、本物を栽培しているらしい」
「ああ」
年齢は二十代なかばほどだっただろうか。若さの割に服装も変わっていた。遠い昔のアメリカ映画に出て来る田園紳士のようなひどくクラシカルな格好。ツイードのキャップをかぶり、ジャケットもダークブラウンのツイード。ウールのフィールドシャツはブラウンとバーガンディーのオンブレーチェック地。パンツはダークグレーのフランネルで、履いているスエードの靴はダークブラウンのウイングチップ・フルブローグだった。
「でも香りはすごくいい!」
大きく息を吸い込んで、彼は言った。
「お飲みになりますか?」
「もちろん! 少し濃い目に。砂糖もクリームもいらない」
「分かりました。では、おかけください」
私は彼にカウンター席をすすめた。
「少し時間がかかりますが」
彼は、キャップを取り、カウンターに置くと、席に着いた。
「一向にかまわない」
私がサイフォンでコーヒーを入れ始めると、途端に地面が激しく揺れ始めた。私は慌ててサイフォンのスタンドをつかみ、アルコールランプを手で押さえた。
「こんなんじゃ、コーヒー一杯入れるのも一苦労だ」
「もう慣れました。気にしても仕方ないですから」
「そろそろだ、って話もある」
「噂は聞きます。でもその噂はもう随分前から耳にしていました。本当かどうかは、誰にも分からないです」
コーヒーをサイフォンの下ボウルからカップに移し、ソーサーに載せて、カウンターに置いた。
「どうぞ」
彼は、カップに顔を近づけ、香りを確かめると、入れ立てのコーヒーを一口すすり、ゆっくり味わいながら、飲み下した。
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