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『針の所、痛くなってきたら言ってくださいね』
駆血帯を解きながら微笑んだ彼女の目を見ることができなくて、春樹はうつむいて頷いた。
逃れようがなかった。
彼女の笑顔の裏の、ひり付くような絶望はすでに春樹の中に流れ込み、臓腑を冷たく冷やしていた。
彼女は10日前、待ち望んで、待ち望んで、苦しい治療の末やっと授かった胎児を流産してしまっていた。
その命は、たった2カ月しか彼女の中に留まってくれなかった。
妊娠を知って泣きながら歓喜し、その幸せの絶頂に愛おしい我が子を失った絶望は、およそ春樹の中で経験したことのないモノであり、そして男である以上、本来経験するはずもないものだった。
熱せられたアスファルトを歩きながら、春樹は思い出したように大きく呼吸した。
下腹部に、あるはずのない重い痛みがへばりついたままだ。
あの女の痛み、悲しみ、絶望。拭いきれないほど鮮烈な。
冷たい汗が再びこめかみを伝って首筋に流れた。
たとえ自分の命を引き替えにしても産みたいと願うあの愛情は、彼女と同化した瞬間の春樹にとって、身震いするほどの驚異だった。
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