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―― ああ、今年もまたきれいに咲いたな。
公園の外灯に照らされた満開の桜の花を見ながら、男はそうつぶやいた。
おまえと知り合ったのも桜の樹の下だった。男たちだけで花見をしていたとき、隣の女たちだけのグループにいたのが、おまえだった。ろくな食べ物も用意せず酒ばかり飲みながら、そちらのおいしそうな料理を物欲しげに見ていると、よかったら召し上がりませんか、と言っておまえは重箱を一つまわしてくれたよな。
結婚式の日にも桜が咲いていた。おれが勤めていた会社を辞めて独立したのも、桜の咲く頃だった。始めた事業がうまくいかず、多額の負債を抱えて死のうと思ったとき、あと一年がんばって来年の桜を見てから一緒に死にましょう、とおまえは言ってくれた。おれはがむしゃらに働いて、どうにか借金を返済し、事業も軌道に乗せることができた。
おまえが不治の病だとわかったとき、来年の桜を一緒に見ような、とおれたちは約束した。だがそれは叶わなかった……
男は妻のことを思いながら公園の桜の花々を見ているうちに、なぜだかベンチの隣の席に妻が座っているような気がしてきた。いや、本当に妻が隣に座っている。男はそう思った。妻の声が聞こえてきた。
―― あなたとの約束を守りに来ましたよ。わたしは今、あなたの隣でいっしょに桜の花を見ていますよ。本当にきれいですね。
―― ああ、きれいだな。よかった、おまえと一緒にまた桜を見ることができて。
―― わたしは桜の樹の下で、あなたとめぐりあうことができて、本当に幸せでした。
―― ああ、おれもだよ。
男は隣に妻の気配を感じながら、冷たい夜の空気の中でせいいっぱい咲いている桜の花々をずっと見つづけていた。
翌朝、公園の桜の樹の下で一人の老人が死んでいるのが発見された。未明の風雨で散った桜の花びらが、老人の死体の上には散らばっていた。老人の顔はなぜか、とても安らかで幸せそうな表情をしていた。
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