0人が本棚に入れています
本棚に追加
「綺麗ですね」
返ってきたのはまたしても予想外の反応でした。彼女はぼたぼたと涙を流し始めました。唇が何度か開きかけますが、すぼまったそこは僅かに歪むばかりです。震える左手を伸ばし、何か伝えようとしているようでした。
「ええっと……」
私はすっかり途方に暮れて、呆けたように突っ立っていることしか出来ませんでした。やがて、その指先が一点を示していることに気がつきました。桜の木の上、一羽で止まっていたカラス。彼女はその方向を必死に指し示していました。もう一度目を凝らしてはみたものの、まったくもって意味が分かりません。私は彼女の真意を問い質そうと隣に向き直りました。
「え?」
今しがたここにいたはずの老女の姿がありません。きょろきょろと首を動かしてみます。小さな人影は跡形もなく消えていました。そうは言っても一本道です。いくら酔っているとしても、あんなにはっきりとした幻覚を見ることなどあり得ません。私は困惑して、再び顔を上向けました。
「……カラス、ですか」
不思議なこともあるものです。無理矢理口元に浮かべた笑みは、少しばかり震えてしまっていたかもしれません。嫌な汗が脇を濡らします。私は踵を返し、来た道を引き返すことにしました。決して振り返りませんでした。一歩ずつ踏みしめるような足取り、歩幅はあっという間に広くなり、仕舞いには全速力になって、私はそこから逃げ出しました。どくどくと耳の奥で血管が音を立てます。理解を越えた出来事を脳は完全に拒否していました。
先ほど目にした光景がフラッシュバックします。一羽、二羽、三羽、そして四羽――黒々とした枝の上、二組のカラスが、静かに寄り添っていました。桜の蕾が膨らみ出す頃、ひどく酔った夜のことでした。
End.
最初のコメントを投稿しよう!