0人が本棚に入れています
本棚に追加
桜の咲かない春を迎えることになった人々は、盛大に桜を惜しんだ。
卒業や入学、就職──出会いや別れの思い出と密接につながっていた桜の存在は、すぐに人々の記憶から消えるようなものではなかった。
桜の記憶は、それを題材にした絵画や音楽などの芸術品のなかでもしばらくは生き続けた。しかし、かつて桜に親しんだ層が年老いてゆき、やがて一度も桜を見たことのない世代が生まれ育ってくると、桜は人々の記憶の中に追いやられ、そこでひっそりと息づくのみとなっていった。
桜を一度も見たことのない世代にとって、桜は遠い国に咲く熱帯の奇抜な花々よりも遠い存在だった。
桜の代わりにより一層クローズアップされるようになったのは梅や桃、そして水仙だった。春になると各地の梅園や桃園はこれまでにも増して大勢の見物客でごった返すようになり、規模も園数も年々増加していった。
──桜がいなくなって、これまでよりもさらに注目されるようになって。スイセンは、ほくそ笑んでいたりするんだろうか。
陽一はぼんやりと考えた。
最初のコメントを投稿しよう!