スロウ・ミュージックの、そのあとで。

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「おかえり」 片手を壁についたら塞がってしまう狭い玄関に迎えに出ると、靴を脱ぎながら由樹が目を上げた。 軽くウェーブのかかった髪と三白眼気味の黒い瞳、どちらかといえば彫りの深い顔立ちで、二枚目と言ってもよいと思う。 その二枚目は、「ただいま」と自然な調子で言いながら抱きついてきた。 「えっ、と……」 背も彼の方が高く、肩幅もあって、私は抱え込まれているような形になる。 首筋から、馴染みのある、彼の匂いがする。 抱きしめ返すことを躊躇(ためら)っている間に、体はすっと離れた。 「夕飯なに?」 「あ、キムチ鍋だよ」 「やった」 基本的には無表情な由樹の顔に、ほんのわずか、嬉しそうな色が浮かぶ。 それは、私を幸福にした。 「おっと、火つけっぱなしだった」 慌ててガス台の方に戻り、溢れんばかりに煮え立っていた鍋の青い火を止める。 それぞれの器にキムチ鍋を盛り、ご飯をよそって、卓袱台を前に座っている由樹の前に置く。 箸を持ったまま、「いただきます」と彼は手を合わせた。 私が無意識にやっていたのを、いつの間にか真似するようになった。 「今日はどうだった?」 「どうって?」 「ええと、仕事で何か……面白いこととかあったかな?」 「……」 「逆に、トラブルとか」 「……うん、あった」 「えっ、どんな?」 「経理主任に怒られた」 「なんでそんなことに?」 「2014年5月24日の金曜から継続的に仕入れ先になっている会社が、接待交際費の仕訳に全然ないのはどうしてかって訊いたら、怒られた」 「それは……」 私は、箸を止めてまじまじと由樹を見た。 「もしかして会社の闇、かも」 「闇?」 不正の匂いがする、と思ったが、確信はなかった。 「由樹がそれに気づいたのは、偉いと思うんだ。でも、しばらくは経理主任の仕事ぶりとか領収書に変なところがないか、観察してみたらどうかな。何かあったら、直接社長に報告した方がいいかもしれない」 由樹は「うん。弘充さんがそう言うなら」と素直に頷いた。
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