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夏の始まりの幻想
谷川を挟む急な斜面に茂る木の葉が、時々、微かな風に揺れてひそやかに音を立てる。
深夜の渓谷に、満月の光が差していた。
その底には、いくつもの大きな岩が水辺で傾いたり、横たわったりしている。
その無秩序にもたれあい、重なり合う姿は、降り注ぐ冷たい光に照らされて、淵に満々とたたえられた水の上では逆さまになって映っていた。
その岩の上に、長い黒髪の女が立っていた。
艶やかな肌の上に一糸まとわぬその身体は、豊かな曲線を描いて青白く輝いている。
しばらく月の光を浴びていたその女は、矢庭に岩を蹴り、黒髪をなびかせて深い淵の中へ飛び込んだ。
一瞬だけ水飛沫が上がったのち、再び川面に静寂が戻る。
やがて白い水の泡が幾つも咲き、川底から白い影が浮かび上がってきた。
濡れた髪を肌にまとわりつかせたその影は再び岩に登り、その場に腰掛けて月を眺めた……。
「何ぼけっとしてんの」
背中を急に叩かれて、うとうとしていた俺の夢は破れた。
ここはどこだろう?
少なくとも、さっきまで見えていた渓谷の水辺ではない。
そもそも、俺に話しかけているのは誰だ?
少なくとも、さっきの女ではないだろうけど。
「いや……」
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