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授業が終わった。大きく伸びをしている僕にそっと椅子を寄せて、内緒の耳打ちをするように音羽が言う。
「トモくん、卒業式でピアノの演奏するんでしょう?」
「昨日決まったのに、もう知ってるんだ」
「知ってるよ。大ニュースだもん!」
「やりたくないのに、教頭先生が勝手に組み込んだんだよ」
謙遜でもなんでもなく、不本意なプログラムであることは本当だった。うんざりした心境のまま、次の授業までの宿題である数学のプリントにシャーペンを滑らせていく。
そんな僕の様子を、音羽は気にも留めていなかった。
音羽が小さな唇を尖らせるようにして、悩ましげに溜息を吐いた。
「トモくん、どんどん遠い人になっちゃうね」
わかってる。音羽のその言葉には嫌味も悲しみもなくて、ただ、憧れや尊敬といったありがたい感情が乗せられていることを。ただ彼女は底抜けに素直なだけだ。
わかっては、いるのに。
窓の外で桜のつぼみが、咲くべきときはまだかまだかと揺れていた。
遠くなったのは、どっちだよ。
口をつきそうになるのを我慢した。
卒業を間近に控えた3月2日。
音羽に「つきあうことになったの」と聞かされて、もう2年ほど経った。今でも、音羽の交際はまだ続いているらしい。そんな幼馴染の甘酸っぱい青春を見て、僕は特に何も思わなかった。
2年間、僕はピアノだけを見つめて、音羽は自分の恋人を見つめていた。ただ、それだけのこと。
天才だとか逸材だとか言われたとしても、周囲の人間はみんなどこかで僕を敬遠していることを、僕は知っている。
「卒業式、楽しみにしてるね」
音羽の言葉は窓から入り込んでくる、春の柔らかい風に溶けた。より一層、桜のつぼみが楽しげに揺らめく。
桜になりたい。
窓の外でゆれるピンク色の影を見て、唐突にそう思った。
正確には、なってしまいたい、だ。
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