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「――でもこの桜はもうだめなのよ」
いわれてひとつの桜を見る。
しかし私はその桜に異変を感じることはできない。
「この桜はこの前、うちの姉さんが食べてしまったの。姉さんはとても健啖家なものだから、桜のことなんて考えずに食べたいぶんだけぜんぶ食べていってしまうのよ。だからいまはまだ元気に見えるけれど、中身はもうからっぽなのよ。いままでもっていたたくさんの夢が、すべて奪われてしまったのよ」
彼女は静かに涙を流した。流れ落ちる涙が桜の花びらのようで、彼女がまるで桜そのもののようである。
「夢を奪われた桜は、どうなるのかな」
「人間とおなじよ。新しい夢がないと生きてはいけない。夢はとても大切よ。なければ生きていけないほどに。
でもこの桜は老いているの。新しい夢をもつ力はもうないのよ」
だから。だからつまり、人間と同じで、あとは死ぬのをただ静かに待つだけなのだろうか。
「それでも桜は姉さんのことを恨んだりしないの。私はそれがとても悔しくて、憎らしくて、でも、とても愛おしいのよ」
泣く彼女はとても美しく見えたが、なんとなくぞっとした。
彼女は本当に心から桜を憐れんでいた。だがそれはまるで大切な人にするような憐れみ方であった。ふつう人間は草花にそこまでの感情を抱けるだろうか。少なくとも私には理解できない感情だ。彼女の語る夢物語のような話、非現実的な美貌とあいまって、私はまるで自分が違う世界に迷い込んだかのように錯覚した。あるいは、まだ自分は夢の中にいるのかもしれない。
「ああ、もう行かないと」
その声で私は現実に戻った。
そして数回ほどまばたきをしているうちに、彼女は桜の根元に置いていた鞄を肩にかけていた。その鞄の校章には見覚えがあった。私も遠い昔に通っていた地元の高校のものだ。つまり彼女は自分の後輩で、ということは、現実にいる人間に違いない。なんだか私は恥ずかしくなってしまった。
「悲しい気持ちだったものだから、つい、たくさんお話してしまいました。ごめんなさい」
そういって、彼女は礼儀正しくお辞儀をして去った。
私はひとり、満開の桜の中に残される。少女の姿はもう見えない。そして、これから死ぬというその桜をじっと見つめた。だが、やはり、他の桜とおなじ、ただの桜であった。
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