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と既に内心冷静さを失ったまま大村は後藤を見据えた。その気負いのせいか、はたまたただの間抜けなのか、大村辰馬は後藤から十間(約十八米(メートル))以上離れた真正面に飛び出し、わざわざ一度立ち止まり、「後藤数右衛門、覚悟!」とご丁寧にもいちいち大声で明言し、闇討ちたるものの効力を、自らをもって全く無意味にさせてしまった。戸惑いに近い驚きと、呆気にとられた思いを半ばに、後藤は悠々と遁走。まだこの時点でもどうして後藤に逃げられてしまったのか、把握できていない奇特な大村。よもや自分に非があるとは思っていない。
「待て!」
と叫べど、もはや空しい遠吠え。だが、後藤を追おうとした次の瞬間、後藤の用心棒が大村の前を遮り、この時初めて大村は、後藤の暗殺に失敗したのではないか? という危惧をした。
「退け!」
大村は定寸(六十九.七糎(センチメートル))の刃渡りよりも、幾らか長い勤王刀(きんのうとう)をむき出しに憤激して叫ぶ。
「そう簡単に退けないのが、この稼業のつらいところ」
相手の男は淡々と返すと、ゆっくり刀を抜いた。大村の刀よりさらに一寸は長く見える。夜空を覆っていた叢(むら)雲(くも)が徐に裂けると、雲海に隠れていた月光が露になり、男の顔を照らした。容貌は若く、一見大村と変わらぬ年頃、背丈。そして、大村は緊張感で皮膚が強張る中、その顔に覚えがある事を幾分落ち着いて見極めた。
「お主、もしや由良(ゆら)勢十郎(せいじゅうろう)ではないか?」
由良勢十郎という名を呼ばれた男は、暗がりの中、怪訝な表情で大村を見た。
「む? お前さんは大村辰馬か」
その声にさほど動揺はない。大村はやや荒かった息を元に戻すと、繁々と相手の顔を見つめた。いや、由良の眼を睨みつけた。
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