第1章

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「どうせ聞きゃあしないんだから。それにしたって近頃は本当にご執心だ」  と彼らは言い、春繁の手にも杯を押しつけた。春繁は密かに耳をそばだてていたが、それにしても奥の部屋に入ったきり、公太と真一郎が戻る気配はなかった。  春繁は、青年たちが酔いつぶれたのを見計らって立ち上がった。彼は輪を抜けて廊下を滑り出て歩いた。それまで音のなかった廊下の隅で物音がした。  奥の部屋から、柔らかいランプの明かりが彼らの貼った襖紙から染み出していた。春繁はその温かそうな光に惹かれて戸を引いた。  春繁はとっさに、自分に当たった光から自分を離すために戸を閉めた。  それから自分の慌ただしい足音を聴いた。その光景を脳裏から拭い去ろうと何度も瞬きした。やがて廊下の端まで来て、彼は自分が荒々しく息を吐く声を聴いた。 (どうして、)  懸命に瞬きをしても、春繁の脳裏には病人のふくらはぎの形がはっきりと残った。いつも着物を着る時は嵌めたように白足袋を脱がない青年が、公太に抱えられていたその時は踵から首筋に至るまで裸だった。  花火大会の時は、彼ら二人は人混みから離れた。 「シゲちゃん何してるのよう、」  公太の古くからの女友達である美女のリリイだけが、向かい風のなかで大声で叫んだ。  春繁は知らないのは自分だけのように思っていたから、内心痛みとともにやや安堵した。そのことについては、どうやら同性の友人たちの方が早く勘づいて囁き合っているらしかった。そういえば彼らは真一郎に対し、その美貌を褒めたりするものの、紙一重で他人行儀なところがあった。 「自分」は果たしてどうなのかーー、公太のことでもあり、これがいつもの「病的な興奮」ではなく「真実の恋」であるとしたら、決して周囲の誰にも打ち明けないだろう。まして女には言うまいと思われた。  他方で男の自分は知らず、他の男友達がその匂いを嗅ぎつけたとなると、やはり己一人が彼の仲間ではなく、いつか公太が冗談交じりに言ったように自分は彼の「弟みたいなもの」なのではないかーー。 「帰るよ、」  と、春繁は呟いた。その声音に何やら彼の沈思が滲んでいたらしく、リリイの愛らしい顔が風のなかで凍りついた。 「どうしたのよ、シゲちゃん」 「公と日下さんを見つけたら、アトリエに連れて帰る」 「帰るったってもう遅いじゃない。この人混みだもの、探す方が大変だわよ。もう先に帰ってるかもしれないし」
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