第1章

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 死の手前になって、真一郎は発狂した。  そうではない、あれは死んだ妹の亡霊が憑りついた姿だ、などと公太は盛んに言ったが、聡明で大人しかった真一郎が獣のように喚き散らし、恐ろしい力で暴れる様子は、他人の目には熱で脳をやられたものとしか映らなかった。 「なンであたしを見ないんだーー」  女の言葉で喚き散らし、声色や顔つきまで変わり、主人の首を絞めようとして掴みかかってくる病人に向かって、公太は恐れつつも確かな顔つきで常に「きょうこ、」と呼びかけていた。 「分かるだろう、俺にはお前さんが分かるーー、お前さんの顔が分かるのはこの世で俺だけだ、あともう少し辛抱してくれ、なーー」  春繁には彼らの会話の意味が分からなかった。また、理解したいとも思わなかった。  彼は公太に言われて真一郎の履歴を調べたことがあったが、確かに五つの時に双子の妹が水死し、彼がそれを自身のせいであるかのように悩み、神経症に罹ったことがあるらしい点までは分かったが、不思議と真一郎が最後に明かした「医者との関係」の方が出てこなかった。  どちらでも良かった。真一郎の言うように、過去に彼に誠実な恋人があり、その愛のために公太との関係に悩んだことがないということでも、また公太の言うように真一郎が苦しみ続けた妹の亡霊にとうとう憑りつかれたことであっても、いずれにせよ真一郎という人は、春繁にとっては手に余る人物であるように思われた。 「殺してやるーー、」  真一郎がついに口にしなかったそんな言葉を「きょうこ」が吐くのを見て、あるいはあれは少女の亡霊などではなく、真一郎が正気によって圧殺してきた本心による言葉ではないかという気もふとした。  他方、真一郎という人はその言葉の端や、眼差しや冷たい掌を押しつける仕草に、己の憎しみを込めることなど容易くやってのける人だったという気もした。そういう、真一郎の怜悧さに対する一種の信頼に突き当たってからは、彼は内心で公太を責めることを止めた。  しゃく、という少女の葉を噛む音は、いつの間にか春繁の周囲から消えていた。それよりも病人の症状が悪化してからは、声を殺した密議の声や、慌ただしく往来する人々の足音の方が常にアトリエのなかに満ちていた。  彼らが乗り越えてきた過程と比べると、不思議なぐらい容易く春になった。
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