第1章

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 気がつくと、この不良学生は鳥が飛ぶような軽やかさで、春繁から本を取り上げていた。 「『idiot』……なんだ随分なタイトルだな、お前さんそんなむつかしい顔して馬鹿とは何かについて考えてたってのかい」 「それは、」  春繁はつい叫んだ。それは養家で与えられたドストエーフスキイの作品のなかでも、彼自身が特に熱中して読んでいるものだった。 「『馬鹿』って言っても、ただの愚者じゃないんだ。主人公であるムイシュキン公爵は、当時のロシアにもし本当に聡明な人物が現れたら、却って愚者のように見えただろうという想像の下に描かれた人物なんだ。実際には、彼こそ作中で最も神に近い聡明な人間なんだよ」 「フン」  と公太は鼻を鳴らして、はらはらと乱雑にページをめくった。時折その手が止まり、実際に幾つかの文章に目を留めているらしい気配があった。  公太はそっと本を閉じた。 「それじゃ何かい、お前さん自身はようーー『愚者を尊敬することが出来る、最も聡明な人間』てわけか。愚者を軽蔑しないでいられる、お前さんが最も神に近いってのかい、ははは」  春繁は一瞬息を忘れた。  彼が内心、公太に対して抱いていた仄かな軽蔑を見抜くことを、彼自身この「有名な愚者」には赦していなかった。 「……女も出て来るよ」  彼がそう呟くと、公太がちらと彼を振り向いた。その横顔には、公太自身の感情よりも、春繁の顔つきに今現れているらしい動揺の影が鮮やかに映っていた。 「なんだ、俺でも読めるってのか」 「きみが気に入るかはわからないけれど、ナスターシャ・フィリポブナという絶世の美女が出てくるんだ。商人のロゴージンは彼女の愛を得るべく、彼女のために十万ルーブルを持ってくる約束をする」 「へえ、上手くいったかね」 「いや、」  春繁は、公太がその後の展開を見透かしたような態度でいるのに内心どきりとしながら話を続けた。 「ちっとも。ロゴージンから受け取った大金を、ナスターシヤ・フィリポブナは炎のなかに投げ込んで燃やすんだ。孤児の境遇で資産家の愛人にさせられた彼女は、自ら自由になれるはずの機会を棒に振って……」 「はっ」  かっかっか、と公太はまるで野良犬のように笑い、手のなかの閉じた本を微かに撓めた。 「なるほどねえ、それでお前さん自身はどうだい、惚れたかい」 「え、」 「その、ナスターシヤ嬢にだよ」
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