第1章

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 春繁は殴られたように返事に困った。公太はまたからからと笑った。 「『感心してる』ようじゃまだまだ……女の話をするには早えーやな、来い」  俺がお前さんを愚者にしてやる、と言い、その日から公太による悪所巡りが始まった。    驚いたことに、公太はまだ高等学校の学生のくせに、料亭にもカフェーにもキャバレーにもどこにでも馴染みの女がいた。また彼らが公太を坊ちゃんといって出迎える様は、彼が既に界隈での上客であることを物語っていた。またそのような場所での勘定を、恐るべきことに彼は全て実家名義のツケで払っていた。 (氏より育ちっていうけれど……この人の場合は一体、)  春繁はこの同い歳の少年の感覚の麻痺が恐ろしくなった。初谷家での生活は経済的に恵まれたものではあったが、彼は養父を困らせるほど物ねだりをしたためしはなかった。そもそも養家での監視下に育った彼は、これほど本能のままに生きている人間を見ること自体、まるで火の傍にいるように恐ろしかった。 (どうしたらこんなに『欲しい物』が出てくるんだろう)  春繁はふと、前を通った女給の髪留めに目を留めた。それは金色の櫛に真珠を模した珠を付けた物だった。  春繁はふいに、自分が子供の頃「欲しくても口にしなかった物」のことを思い出した。それは横浜の百貨店で見た、真珠の飾りのついた少女用の髪留めだった。彼に買い与えられる物としては、さほど高価な物ではなかったのだが、それを欲しいと口にすることで養父との間で失うものの方が大きいように感じ、彼はその真珠の幻を芸者たちの姿とともに胸の奥で葬った。  彼の目の前に、公太の黒い太陽のように明るい笑顔が来た。 「何だお前さん、さっきからじっと見てーー、ははあさてはあの娘か、」 「はあ、」 「ああいうのが好みか、そんならそうと先に言えって、おい勘定??」  その日は結局、公太の発案で学生寮には戻らなかった。  その後、春繁がいわゆる悪所に向かないと分かると、公太は誘いの手をあっさり緩めた。  彼は教室で時折声を掛けてきて、「女の出てくる小説」のことを聞いたり、新作の映画やそれに登場する女優の話をするだけの友になった。  ある時、春繁が教室で鞄を落とし、なかから少女向けのスタイルブックが零れ落ちた。春繁は顔色を変えたが、公太が覆いかぶさるように現れ、床から拾ってそっと春繁に渡した。
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