第1章

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「知ってたの、」 「おうよ知らぬは本人ばかりてなーー、初谷博士の一人息子、子供がいない博士が財産管理のために合理的な判断をしたと評判だ、悪いがお前さんも校内有名人の一人だ初谷春繁」  春繁の顔に、吐瀉物に掛かる風が少し冷たく当たった。正体不明の涙が頬の中央を通った。  薄闇のなかで、公太がちらと春繁の方を振り向いた。  のちも春繁は、この時の公太の顔つきを鮮明に記憶していて、時折思い出して可笑しくなった。公太が他人の顔をちらと掠めるように見るやり方は、小鳥が木の実を啄むように動きが最小限に収まっていて、彼を眺める余裕のある時の春繁につい(この人はどうしてこんな風に他人を見る習慣を持ったんだろう)と思わせるものがあった。  公太が近づいて来て、よく自分でやるように春繁の髪をくしゃりと掴んで言った。 「お前さんようーー、料亭の子と知られるのがそれほど悲しいか、他人に知られたくないことばっかりか、そんならお前さん自身は一体何者だ、え言ってみろ」 「ボクは、」 「一高へ行って、帝大へ行って、末は博士か大臣かーーそれで満足かい?」 「ボクは、」 「それとも耳のいいとこ活かして芸者になるかい、毎日いい着物着てよう」 「……」  春繁が黙ると、公太が攫うようにその両手を取り 「買った、」  と辺りに響き渡る大声で言った。看板の灯りに袖を照らされた女たちが笑いながら彼らを見た。 「いいかシゲ、あの下手糞を聴き分けたのはド素人じゃお前だけだ、お前さんの耳は博士には勿体ねえや、なんにも決まってねえんだったら俺が決めてやるーー、俺と来い」    その日以来、春繁は公太に「買われた」かのように、どこへ行くにも連れて行かれるようになった。  夜道にガス灯が点るように、春繁に友人が増えた。なかには金持ちの不良息子がおり、キャバレーの踊り子がおり、喧嘩ばかりする不良少年がいた。養父と女中と活字と猫と少女雑誌の挿絵の他に、彼に話し相手が出来た。  やがて博士が小言を言うようになっても、春繁は本物の春繁になることをやめなかった。 「猫の恋、という季語があるがね」  と、ある時俳句に凝りだした時に公太がふと言った。 「クドいか、お前さんには」  春繁は、笑いを片頬に浮かべるだけで明瞭に答えなかった。確かに己の愛するのは女でなく、男でもなく彼の言うように「着物の柄」であるのかもしれない。
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