第1章

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 彼は公太に出会ってから、まるで躾から解放されたかのように社交的になり、陽気にもなったがーー不思議なことに生物にとって最も自然な行動であるはずの「恋」からは、己の本質に近づくほどにむしろ遠ざかるかのようだった。 モデル募集 日当五千円  そうした求人広告を、公太が急ごしらえの「アトリエ」前に掲げたのはその三年後である。帝国大学進学を前に、彼は例の変節癖を持ち出し、突如「絵描きになりたい」と言い出して大金持ちの祖父を困らせた。  本格的に絵の勉強をするから、ついては東京の帝国大学ではなく美術学校に進学させろというのがこの放蕩息子の言い分だったが、祖父はここで難しい条件を出した。 「この三つのコンクールのどれかで金賞を取れってよ、」  と言って彼が差し出した切り抜きの記事を見て、春繁の方が息を呑んだ。 「公、こんなの無理に決まってる」  彼は公太の影響で趣味に凝るようになって以来、美術鑑賞についても浮世絵から西洋画に至るまで鑑賞の幅を広げていた。 「最後のビエンナーレ国際絵画コンクールなんか、海外からも応募作が来るやつだよ……本郷町内写生大会とはわけが違うんだ。きっとお祖父さんは公に諦めろと言って……」「んなもん、やってみなきゃ分からねえじゃねえか、」  彼は「モデルが美人なら立派な美人画だ」などと言い、最初は町一番の美女であるリリイ嬢に依頼をした。しかし彼女に振られると、今度は金にものを言わせて求人広告を出すことにした。  そこで彼らはようやく現実の難しさに突き当たった。広告を見て集まった金目当ての農夫、冷やかしに来た子供たちを追い散らすうち、とうとう公太が辛抱できなくなった。 「まったく百姓はこれだから嫌なんだ」  彼は手ずから筆を取り、求人広告に荒々しく次の文字を付け加えた。 「モデル募集 日当五千円  美人を求む」 「失礼します」  と言ってアトリエの戸を叩いたのは、その青年が初めてだった。  透き通るような肌、切れ長の瞳、伏目になれば菫色の影を落とす睫毛、思慮深そうな痩せた頬、形のいい唇ーー。端正で、どこか閉ざされた印象のあるその美貌は、寒い土地に生った果実のようで、今まさに鳴り響こうとする一小節の音楽を思わせた。  この片田舎にはこんな美青年はおろか、こんな緻密な想像力を持つ人間すら稀だった。地元の紺色の制服を着た立ち姿自体が、何やら蜃気楼のように不思議な光景だった。
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