第1章 私の午前8時半

2/2
前へ
/13ページ
次へ
「早く早く!遅刻しちゃうよ!」 あまり急かしてはいけないと思いつつ、4歳のマイペースな娘にこう声をかけるのは既に癖になっている。 陽射しがあたたかくて心地よい。風も穏やかでお散歩日和なのだ。 この街に暮らそうと決めたのは私だった。川沿いの桜並木が大好きだった。水の流れる音を聞きながらゆっくり歩く時間が私の贅沢。 娘の保育園も川沿いにあり、今から向かうところだ。 今日は『サクラ祭り』という名の保育参観がある。一年間の保育の成果として制作物と歌のプレゼントがあるらしい。 任意の参加ではあるが、なんとか有給をとることができたので参加することにした。 仕事は好きだけれど、目的じゃなく、あくまで手段だと思っている。 娘には将来どんな事でも、親の都合で諦めてほしくないから、そのためには働く必要があった。 私が何より大事なのは家族との時間だし、娘の笑顔。だから、休みを取ることに難色を示す人がいたって気にしない。 「ママこれあげる」 そういって無邪気に桜の花びらをくれる。この子とこの季節に川沿いを散歩できるのはあと何回なのか?別に死ぬわけでもないのにそんな事を考えてしまう。 保育園に着き、いつもの手順でひとまず娘を預ける。保育参観は10時から。一旦家に戻り、家事を済ませてからまたここへ来よう。 家に着くと、平日に手がつけられずに中途半端にされた洗濯物や食器、こどものおもちゃがちらほら。一気に憂鬱な気持ちが込み上げるが、なんとか自分を奮い立たせ、ひとつづつ片付けてゆく。 夫はとても優しい。きちんと仕事もしてくれるし、娘の事も可愛がってくれている。けれど、私には不十分だった。仕事もそれほどハードなものではなく、家族との時間も多かったが、私にはなぜか孤独に感じた。 きっと、誰かに話しても理解してもらえない。贅沢な悩みだと言われるのがオチだ。 なぜこんなにも満たされない感情になるのだろう。 ソファに深く腰掛けコーヒーを一杯。気持ちを切り替えてゆく。 家の外で見る娘の姿は最高に愛おしい。サクラ祭りが待ちきれない。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加