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彼は私より三つ歳上で、今まで日本料理店で板前をしていたそうだ。人間関係が原因でお店を辞めたそうで、板長さんが、その腕を惜しんだそうだが、彼の決意は変わらなかった。
「仕事で苦労するのは構わないけれど、それ以外の所ではもっとフリーな気持ちでいたい」
そんな事を言っていた。
私が、彼に「鯖の味噌煮」の秘密を訊いた日から、仕事場でも少しずつ話をするようになった。社員食堂の調理師の間でも彼の腕はずば抜けていて、やがて私たち栄養士の献立の会議に出席して調理をする者からの助言を言って貰うようになった。
私は、そんな彼を次第に頼もしく感じるようになった。本音を言えば、社員食堂みたいな集団給食に来る調理師は総じて、味付けや調理の仕事にこだわりを持たない人が多い。無難な仕事をする人が多いと思っていた。勿論、年配の人の中には、有名なお店で修行した人も居て、素晴らしい仕事ぶりを見せてくれた人も居たが稀だった。
一緒に仕事をするようになって、一年以上過ぎた時だったろうか、この頃には私は彼と一緒に昼食を採る回数がかなり多くなっていた。最初は献立の相談で、食べながら色々な事を相談していたのだが、やがてそれが日課みたいになってしまって、それ以外のプライベートな事も話すようになっていた。
そんなある日、一緒に昼食を食べていたら、彼が
「何時かは、自分の店が持ちたいんだ」
自分の夢を語りだした。私は相槌をしながらも
「お店って、料理屋さん?」
そう尋ねてみたら
「料理屋というより定食屋さんみたいな店かな。無論お酒も呑めるけど、メインは料理で勝負出来る店かな」
そんな返事が返って来て、嬉しそうだった。彼に比べ私は、自分に将来の夢が無い事に気がついた。逆に彼に同じことを尋ねられてもロクな返事が出来なかったろう。それは私も女の子だから、好きな人のお嫁さんになって……という事は考えたことはあったが、それ以外でと問われると返事に困ってしまった。
「お店かぁ。そうね、そうなれたら良いね」
彼の夢については、その時はそんな返事しか出来なかった。
でも、それから彼を見る目が変わった。それまでも好感を持って接していたのだが、私はいつの間にか、彼の夢に自分の将来を重ね合わせて見るようになっていた。この時、私は彼に好意以上の感情を抱いている事に気がついた。
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