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「先輩、ちょっともたれかかりすぎです。起きてください」
矢野(やの)シイナは、隣の席で白目をむいて寝ている?身の男のほっぺたをぎゅっとつねった。端正でややエキゾチックな彼の顔が不快そうにゆがんだ。ぐぬ、と変な声を出してワーム状の虫のように身をよじらせる。
なんとか眠りの世界から帰還した彼は、ふしゅっ、と変なくしゃみをする。
「なんだよ、ちょっとくらい肩か胸を貸してくれてもいいじゃないか……へるもんじゃないしさあ」
「先輩への敬意の念がへります」
「敬意なんていらないから触らせてよ」
「そうなると私の貞操がなくなります。というか、なにさらっとセクハラ発言してんですか。マジで死んでください」
日向(ひゅうが)は痩身の身体をくねくねとさせながらため息をついた。
「……それにしても寒いなあ」
昼頃から曇ってきてはいたが、外は湿度が高いためか蒸し暑く、バスの中は冷房がゆるめに利いていた。くしゃみをするほどの寒さではないはずだが、熱帯出身者さながらの寒がりなこの男は湯引きした魚のように身を縮ませている。
矢野はとある関東の大学の物理学科に通う四年生だ。彼女は、今年の春に配属された物性物理学の研究室で、ドクター課程一年の日向マコトと出会った。まだ出会って半年ほどだが、立場上よく面倒をみてもらっているために矢野にとってほとんど師匠のような存在になっている。
彼らは、劇団「液体ヘリウム」が主催する二泊三日のミステリー・ツアーに参加していた。
今回のツアーは特に、ハウダニットの名手と謳われた作家「電流流(でんりゅうながれ)」とのコラボ企画が用意されているということで、全国のミステリファンから注目を集めていた。昔から「電流流」の大ファンで、先月の大学院試験を終えて比較的ヒマを持て余していた矢野はここぞとばかりに参加を決めた。
ツアーの最終日には、例の「電流流」が脚本を手掛けた参加型の推理イベントが計画されていた。スタッフが提示する謎を、参加者自らが探偵となり、自分の足で手がかりを集め、推理し、解明するのだ。しかも今回は例年と異なり、正解者の中から抽選で電流流のサイン付き新作および限定グッズ、賞金がもらえるというのだ。当初はひとりでの参加を考えていた矢野だったが、より戦力を増強し、かつ抽選の頭数を増やすという目的で、学会が終わってヒマそうにしていた日向をひきずり出したという次第である。
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