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「…………俺」
ん? 穏やかな上目遣いが、続きを促す。しばらく考えて、慧斗は恐る恐る告白した。
「オーナーの会社の社員になんないかって、ずっと言われてて」
「俺がオーナーでも言うな」
「……断わってた理由なんてほんと、しょうもない、モラトリアムな理由だけど。今は違う理由で、すごい、迷ってます」
「うん?」
「乾さんは、ちゃんと社会人だから。俺も少しはあなたに似合うようになりたい」
それを、自虐から出た言葉だと思ったのだろう。乾が今度こそ、少し強い口調で咎める。
「んなこと、きみが好きなようにすればいいよ」
「そうじゃなくて、社員になるの、今は全然嫌じゃないんです。あの……」
息継ぎには長い間を、辛抱強く待たれる沈黙。
「あの、俺が今みたいに身軽だったら、乾さんに着いてどこでも行けるけど……一回腰落ちつけちゃったら、そういうのできなくなりそうで怖い、から」
言ってしまってから後悔するまで、一秒もかからなかった。
「……やっぱ重たいな、すいません」
目蓋を下ろして遮断した外界から、
「俺も考えてんだ」
角のない声がする。
「で、考えて、今の現場に正式に着任できるように申請してます。形式上の申請だから、まず却下にはならないよ」
驚いて目を開くと視界いっぱいに、恋人の三割増真面目な顔があった。
「きみばっか、俺に合わせることはない。違う?」
崩れそうになる表情を取り繕う努力は、ほとんどする必要がなかった。横たわっていた慧斗の肩を押して仰向けた乾が、覆い被さってきたからだ。
「ね、違わないだろ?」
「……うん」
慧斗がきちんと答えてようやく、口付けが叶った。
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