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【7】ひどく甘くて切ないもの
華井の唇は見た目通り柔らかかった。
宇佐見は我慢出来ずに、二度三度と唇を重ねた。
華井からはいつもの甘い香りがした。
これって体臭?
でも髪は…昨夜俺と同じシャンプーを使ったから俺と同じ香りだ…
そんなことを考えていたら、腕の中で華井がもぞもぞと動き出した。
「…ん…んー」と一言唸ると、ゆっくり瞳を開ける。
宇佐見を見上げると、「おはよう、純くん」と言ってニコッと笑った。
かわいい…
クソ…なんでこんなにかわいく見えるんだよ?
「涼くん、おはよう。
良く眠れた?」
宇佐見は何とか言うと、華井の髪を撫でた。
怒るかな?と思ったが、華井は気持ち良さそうにされるがままになっていた。
「うん。おかげでぐっすり眠れた。
純くんは?
腕枕なんかして疲れただろ?」
「鍛えてますから」
「兄貴と同じこと言うなよ~」
華井がクスクス笑う。
宇佐見は胸がチクリと痛んだ。
涼くんは毎晩こうやって、お兄さんに抱かれて眠ってるんだ…
そんな宇佐見の考えを遮るように、華井が唐突に言った。
「お前達って何か不思議なんだよなー」
「…え?」
「俺今も友達なんていらないって思ってる。
でもお前達といるのは…なんて言うか嫌じゃ無い。
居心地良いんだ」
「うん」
「だから不思議でさ。
自分でも良く分かんなくて…」
「俺達と居ると、ちょっとでも楽しい?」
華井は少し黙ると「楽しい」と小さい声で言った。
「…じゃあいいじゃん」
宇佐見が華井をぎゅっと抱きしめる。
「楽しくて、一緒にいる。
何も問題無いよ。
深く考えることも無い」
「そう…かな?」
「そうそう。
つまんない知り合いより楽しい知り合いの方が良いだろ?」
「そうだよなー!」
華井は宇佐見の腕の中で笑い声を上げた。
宇佐見と華井はまだ眠っている赤坂と朔宮と賀川を残して寝室を後にした。
洗面を交代で済ませると、宇佐見は華井に朝食に何が食べたいか訊いた。
華井がフレンチトーストと答えたので宇佐見が作ってやると、華井はいつものように感動して食べていた。
それから他愛のないお喋りをして盛り上がった。
赤坂の言う通り、華井はよく喋るしお笑いも好きらしく、まだメジャーになっていないお笑い芸人の話を楽しそうにしていた。
宇佐見にも色々質問して来た。
宇佐見は一番の趣味は格闘技でゆくゆくはインストラクターの資格も取りたい、後はカメラと山登りと乗馬が趣味で、絶対音感があってピアノとギターを弾けると答えた。
華井は「純くん完璧じゃん!そのルックスで料理も出来て格闘技もすんのかよ!それに多趣味だな~!」と言って宇佐見を赤面させた。
宇佐見も華井のことが知りたいと思ったが、なかなか質問出来なかった。
その内大学に行く時間が迫り、三人を叩き起こして大学に向かった。
「あーこれで肩の荷が下りたー!
涼ちゃん本当にありがとー!」
教授にレポートを提出して、みんなの待つ元へ戻って来た賀川は、華井をぎゅうぎゅう抱きしめた。
「良かったじゃん。
もう遅れんなよ」
華井は嫌そうな素振りも見せず、笑って言った。
そんな賀川を宇佐見が無言で華井から引き剥がした。
賀川が即抗議の声を上げる。
「純くん、何すんの!?」
「暑苦しいんだよお前!
何かっつーと涼くんにひっついて…離れて喋れないのかよ!?」
「だって…感動したから…」
「まあまあまあ」
朔宮が賀川と宇佐見に挟まれていた華井を、自分の元に引き寄せると言った。
「それで賀川さん、涼ちゃんに何をお礼するか決めたんですか?」
「お礼なんていらないよ」
華井がアッサリ言う。
「えー!そんなこと言わないでお礼させてよ~!
じゃあ涼ちゃんの大好物って何?」
華井は賀川をじっと見上げると、一言「貝」と答えた。
「じゃあ新宿のあの磯焼きで有名なお店にしたら?
俺ら一度行ったことあるじゃん」
赤坂がのんびりと口を挟む。
「あ!あーちゃんそれ良いっ!
涼ちゃん、来週の都合の良い日教えてよ!」
華井は賀川を見ると、仕方ないなという風に笑った。
「火・木・土がバイトだからそれ以外なら良いよ」
「えーと…じゃあ俺もバイトの日にち確認してライン…イテッ!」
賀川の頭を朔宮と宇佐見が同時に叩いた。
「…賀川さん…まさか涼ちゃんと二人きりで行こうとしてます?」
「…賀川…お前…」
賀川はサッと青ざめると言った。
「よ…四人で良く相談してからラインするね~!」
昨日の賀川のヤロー…油断も隙も無い!
宇佐見はバイト先のロッカーで着替えながら思った。
いや…
別に良いんだけど…
俺は別に涼くんをどうこうしたいとか
好き…とかじゃ無いし…
か、彼女だっているし…
キス…しちゃったけど
あれは…弾みって言うか…
宇佐見は頭を軽く振ってロッカーを出ると、タイムカードをスキャンしてホールに出た。
まだ開店前の店に、ピアノの生演奏の音がしていて驚いた。
あのグランドピアノ、飾りじゃ無かったんだ…
そう思ってピアノに目をやると、華井が弾いていてまたビックリした。
華井の横には、イブニングドレスを着た女性が立っていて、微笑みながら華井に何か話しかけていた。
宇佐見は吸い寄せられるようにピアノに近付いた。
これ…古い映画音楽だ…
何だっけ?
『ティファニーで朝食を』の『ムーンリバー』だ…
ふと鍵盤から顔を上げた華井と目が合う。
華井はにっこり笑って、「純くん、おはよう」と言った。
宇佐見は曲が終わると華井に話し掛けた。
「…涼くんピアノ弾くんだ…」
我ながらマヌケだな、と宇佐見は思った。
もっと気の利いたセリフ…いくらでもあるのに…
華井はまたニコッと笑って答える。
「弾くよ。
この店、週末だけピアノの生演奏あるんだよ。
こちらがピアニストの麗華さん。
俺が週末バイトに入ってる時、いつも俺にピアノ教えてくれてさ」
「教えてるなんて大袈裟よ。
涼くんのピアノ、店の人達みんなが聴きたがるから、私が邪魔しないようにしてるだけ」
そう言うと、麗華と呼ばれた女性は華井の肩にそっと手を置いた。
宇佐見は胸がチリチリ痛むのを感じた。
「こいつは宇佐見くん。俺と同じ年で同じ大学なんだ。
今週入った新人」
「はじめまして。
麗華です。よろしくね」
麗華は優雅に微笑んだ。
ドレスと同じ色のイヤリングがキラリと光った。
「宇佐見純一です。よろしくお願いします」
宇佐見が軽く頭を下げると、「純くん、リクエストある?弾ける曲なら弾いてやるよ。あ、でも純くんの方がピアノ巧いか~!絶対音感持ってるくらいだもんな」と、華井が悪戯っぽく微笑んだ。
「…じゃあビッグ・フランズ・ベイビー…」
「ふうん…パーフェクト・ワールド好きなんだ?
暗譜できるかな?
まぁいいや弾いてみるから」
そう言うと華井は鍵盤に指を落とした。
淀みなく演奏が始まる。
「宇佐見!お前こっち!」
宇佐見は慌てて呼ばれた方に向かった。
その日、宇佐見の耳に華井のピアノが鳴り響いていた。
華井は結局、開店前の雑用は一切やらずにずっとピアノを弾いていた。
店の従業員も店長すら、そんな華井をニコニコ笑って見ていた。
特別扱いされてるんだな…
宇佐見は思った。
仕事中も良く見ると、華井がやる仕事と言えばオーダーを取る、カクテルや軽いおつまみを運ぶ位で、重い氷の入ったバケットを運んだり後片付けは先輩達が率先して華井をカバーしてやっていた。
華井はその間、店長か副店長に命じられた仕事をこなす。
それもバックヤードで簡単な伝票整理などだった。
だからと言って、宇佐見は嫌な気分には一切ならなかった。
華井自身は真面目に言われた通り仕事をしていたし、寧ろ自分が華井より先に店で働いていれば、先輩達のように華井をカバーして働けるのに…と思った。
「お疲れ」
背中をポンと叩かれて宇佐見は振り返った。
そこには私服に着替えた華井がいた。
「お疲れ様」
宇佐見も着替え終わっていたので、ロッカーからバッグを掴んで答えた。
「もう帰るんだろ?
駅まで一緒に行く?」
そう言う華井からは甘ったるい香りがしていた。
いつもの涼くんの香りじゃ無い…
あのピアニストの女の香水だ…
きっと香水を擦り付けた手首や指先で、涼くんの髪や…手に触れたんだ…
「純くん?」
華井は無邪気に宇佐見を見上げて、返事を待っている。
宇佐見はそっと華井を抱き寄せた。
「…一緒にお茶してくれる?
それなら帰る」
華井は宇佐見の腕の中で笑って言った。
「お前ってホント変なヤツだな~」
もう夜の11時を過ぎていたので、二人は駅前のチェーン店のカフェでお茶をした。
安っぽい照明の下でも、宇佐見には華井は綺麗に見えた。
それに華井がピアノを弾いてる姿を初めて見たせいか、なんだか儚く見えて、違う世界の住人のように思えた。
だが口を開けばいつもの華井で、宇佐見はそのギャップに危うく付いていけそうに無かった。
それでも何でもいいから華井のことを知りたくて、共通の話題のバイトの話を切り出した。
「涼くんも求人見て面接受けたの?」
「違う」
華井は即座に答えた。
「兄貴があのホテルに知り合いがいて紹介された。
で、面接受けて合格した」
「そうなんだ。
涼くんって週にニ~三回しか出勤しないのは何で?」
「必要無いから」
華井はソイラテに口をつけると続けた。
「あそこ時給良いし、俺は自分の小遣いが稼げればいいんだ」
そう言うと華井は二ヤッと笑った。
「純くんはデート代も稼がなきゃいけないから大変だよな?」
「そんなの…!
俺は別に!
涼くんこそどうなんだよ?
デート代稼がなくていいのかよ?」
「俺、誰とも付き合わないもん」
華井がアッサリと言う。
「…え…何で?」
宇佐見が戸惑いながら訊くと、「必要無いから」と、華井は宇佐見の目を見てキッパリ答える。
「それよりさ~純くんってみんなを名字呼びするよな?
何で?」
華井は瞳をクリクリさせながら訊く。
「大学で初めて友達になったのが赤坂で、赤坂のことを赤坂って呼んでたから自然に…」
「そうなんだ。
じゃあ俺も華井でいいよ。
くん付けで呼ぶなんて呼び慣れてないんだろ?」
宇佐見は焦った。
『華井』なんて呼びたく無いと強く思った。
「いいよ!
涼くんは涼くんで!」
華井は宇佐見の勢いにキョトンとすると、クスクス笑い出した。
「分かったよ。
じゃあ涼でいい。
くんはいらない」
「…え…」
「その方が純くんも呼びやすいだろ?」
「あ、うん…でも本当にいいの…?」
「いいよ、いいよ!」
華井はニコニコと笑っている。
宇佐見はそっと呼んでみた。
「…涼…」
「うん」
華井は満足そうに笑いながら、頷いた。
「涼…」
「なに?」
「涼…」
「だから、もー何だよ~!
純くんってホント変なヤツ!」
宇佐見は嬉しくてと言う代わりに、顔を赤くして華井を眩しそうに見た。
宇佐見は家に帰っても考えるのは華井のことばかりだった。
あの後華井は強請るように、今度は純くんのピアノが聴きたいと言った。
涼には幾つの顔があるんだろう…
その全てを知りたい…
これから親しくなっていけば分かるのだろうか?
この気持ちは…何だ?
ひどく甘くて…
そして切ない…
だが月曜日に会った華井は、そんな宇佐見の気持ちを粉々に打ち砕いた。
華井は四人を完全に無視した。
いつもの朝は、教室で合流すると華井はみんなに挨拶したりバカ話しをしたりしてから、五人一緒に講義を受ける。
休憩時間も、もっと言えば帰るまで、五人で行動していた。
だが月曜日は違った。
華井は珍しく授業が始まるギリギリになってから、教室に入って来た。
四人が合図するのも気付かないように、一番前の席に座ると、ひとりで講義を受け出した。
四人は何が何だか分からなかった。
講義が終わると四人はすぐさま華井の元に駆け寄った。
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