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万紗子の件は、その日のうちに他の部署でも噂の種になっていた。多佳子が立ち寄ったとき、給湯室では、若いOLたちがキャッキャッと楽しそうにおしゃべりをしていた。そして多佳子の姿を認めると、バツが悪そうに会釈して口をつぐんだ。
そっちの方が面白いんだろうな、と多佳子は考えた。いきなり辞めてしまうのも、それをメールで告げるのも非常識に決まっている。しかし多佳子には、そういうのも万紗子らしいとしか思えなかった。だから若い女の子たちが盛り上がっている方向は少しも考えていなかった。
(アンタたち、週刊誌の読み過ぎなんじゃない、アタマ腐ってるよ。)少しくらいの軽口は挟んでみたかった。でもそんな言葉が口を衝いて出てくるより先に、そそくさと立ち去られるとなにもできない。
いつものことだ。露骨に避けられているわけではないのはわかっている。でも、最初の一言が出てくるのに、他人よりほんのちょっとだけ時間がかかる。そのわずかな遅れが重たい空気になって相手に伝わってしまう。言葉の準備が整ったころには、もう相手はいない。
多佳子はコーヒーサーバーからお湯だけをカップに注いだ。そして少し冷ましてから唇を湿らせてみた。
「ああ、いい、うう……」
声が出ないわけではない。そんなことはわかっている。ミーティングで発言しなければならないときには、きちんと喋っている。雑誌の広告で、担当者としてクライアントにデザインコンセプトの説明するときだって大丈夫だ。あらかじめ準備され、きちんと整理されている言葉ならすぐに出てくる。でも、それとは違う。もっと簡単な、単純な、その場だけの言葉はいつも一歩遅れる。頭の中では会話が進んでいるのに、実際の言葉がついてこない。内気で控えめな女の子でいられたころなら、まだよかった。でももうそんな年でもない。気が付くと、いつの間にか、高いバリケードの内側でひとりっきりでぽつねんとしていた。
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