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米軍基地の出入りが多くなる軍事演習の日は、いつもより多くの油を嗅ぐことができるため、この日ばかりはアルバイトを休むほどであった。
「雄造、朝ごはんの時間よ。早く戻ってらっしゃい」
食事を呼ぶ母の声も雄造少年の耳には届いていないようだ。
「あの子、ついに気が狂ったんじゃないかしら」
食卓の母は嘆いた。
「毎日、ああやって米兵の車を追いかけては油を嗅いでいるもんだから、シンナーで脳がやられたのかもな」
数分後、両親の心配を他所に、少年は鼻の頭を油で真っ黒に染めて戻ってきた。
「あははは、蝶々、蝶々が空を飛んでいる」
揮発した有機成分が中枢神経に作用し、幻覚をみる雄造。
目の焦点は合わず、完全に脳がやられている様子であった。
見かねた父が、
「おまえ、近所で何と言われとるか知っとんのかい!」
声を荒らげると、
「シンナー坊や、だよ」
と嘉門を一喝した。
当時の雄造少年の言動はとても正気といえず、近所から気味悪がられていた。
「うるさいわい、僕はただ車が好きなんじゃい!」
「まったく、もう…」
「母さん、あの子は失敗作だから、今晩もう一人拵えようかい」
食事を済まし、再び道路に張り付く雄造。
雄造の異常な性癖は日に日に強くなるばかりであった。
嘉門宅は、貧しさゆえ、車はおろか、テレビもラジオもない。
外界から完全に絶たれた生活。あるのは沖縄の青い海原と砂糖黍畑だけである。
それゆえ雄造が外国に憧憬を抱くのは無理もなく、アメリカこそが最先端の国だと強く信じていた。
車好きが嵩じて機械には滅法強く、理数系科目の成績は常に学年トップ。また機械いじりが趣味で、壊れたラジオを拾っては修理し、北朝鮮のラジオ番組を盗聴した。テレビが雄造にとって、ラジオから流れる音声情報のみが流行を知る唯一の手段だった。
「東京では例年より早く桜が開花しました。ここ麹町のスタジオも、桜の花片が舞っています」
沖縄では桜は冬に咲く。春の風流とは違う。
「おいらも、いつか東京さ、行きてえなあ」
音だけの情報で、東京への憧れはどんどん大きくなっていく。
東京には汽車が走り、近代的な高層ビルが立ち並び、成金が札束に火を点けて女をたぶらかす。
ああ、いつか、本土に行ってみたい。
空襲から立ち直って世界的都市に成り上がった東京を人目見たい。
しかし、そんな雄造少年の淡い希望は、厳格な両親の前で憚れてしまうのだった。
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