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その後、受験までの半年間はアルバイトを休み、一日十八時間という猛烈な受験勉強をした。その間、母トミは売春宿を六軒掛け持ち、雄造の予備校代を捻出した。
努力の甲斐あってか、東京の理工系大学を受験すると、無事に合格し、一方、いつの間にか年の離れた弟もできた。
「じゃあ、頑張ってな」
「健康に気を付けてね。ちゃんと野菜も食べるのよ」
「お兄ちゃん、頑張ってね」
「分かった。じゃあ、船が出発しちゃうから、そろそろ出るよ」
こうして沖縄を出発した嘉門。
生まれて初めて踏む本土の土。
初めて見た東京の景色は、嘉門の期待を遥かに上回るものであった。
「すげえ、ここが東京か…」
新宿、池袋、渋谷、鶯谷、吉原。
「田舎者が東京に行けば殺される」そうやって口煩く聞かされていた雄造だが、実際の東京は沖縄より余程、安全だった。ここにはハブもいなければ、ヤンバルクイナもいないのである。
「とりあえず疲れたから、コーヒーでも飲もう」
下宿先に向かう途中、大荷物を抱えた雄造は喫茶店に立ち寄った。
在来船で三日三晩、風呂に入らず渡航したため、雄造の体は酢酸のような猛烈な異臭を放っていた。
「ご注文はお決まりですか?」
苦悶の表情を浮かべながら注文を聞く店員。
「コーヒー、くいみ、みっちゃかん、そーれー」
「は、はい?」
「あ、すみません。沖縄から来たばかりで、方言が抜けませんでしたね」
高校時代は英語の成績も頗る良かった雄造だが、はじめは標準語の会得に苦戦した。
「コーヒーでよろしかったですか?」
「は、はい」
冷や汗を流しながらも、なんとか注文に成功した。
「ミルクと砂糖はご利用ですか?」
「はい、砂糖お願いします」
店内を見渡すと、東京人は皆、奇抜な格好をしているように思えた。誰も「島人」のTシャツを着ていない。
これがラジオで耳にした流行のファッションか。実際に目にすると、前衛的に映った。
「こちら、コーヒーとお砂糖です」
漸く運ばれてきたコーヒー。
その横に、見慣れない物体があり、嘉門は目を細めて問うた。
「これはなんですか?」
「角砂糖です」
「へぇ、東京の砂糖は四角いんですな」
東京に来てまず驚いたのは、コーヒーに角砂糖たる高尚なものを入れたことだ。
「沖縄ではコーヒーを飲む時、わざわざ砂糖黍を煮沸します。やはり東京は便利ですな」
店員は、気味の悪い客に触れないよう、そのまま立ち去って行ってしまった。
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