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(Afternoon anemone)
時計の針が午前十一時を回る頃、まだ彼女には、予感、というものを覚えていなかった。
遅めの朝食。レタスとハムのサンドウィッチ。それらを静謐のみが纏うダイニングで摂っているだけ。
そして、室内の食卓の中央には花瓶に添えられた八重咲きのアネモネの花。
その紅紫色の花を瞬きもまばらに見ている。決してその花が、ダイニングと透明感のある調和を果たしているかと言えば、そうではない。むしろ無機質な部屋に咲く一輪の花は、冬の終わりまで解け残った、かつて純白だった薄汚れた雪。陰りある道端の電柱に拠り続ける、残雪のような浮いた存在に、彼女のいるダイニングではアネモネの花は映っていた。
今日もいつも通りの日曜日が始まる。
そう思いながら。
だから何らかの思惑を持ち合わせてはいないし、何らかの兆しも求めてはいない。ただ微かに揺れる風との隣り合わせの経過を嗜むのみ。
アネモネの花言葉の一つに『期待』という文字がある。
だが、そんな事など露知らず、彼女はせいぜい、曇りがちな今朝の天気を見て、昨晩のニュースの雨の天気予報が、久々に当たりそうなのを気にする事を、頭に浮かべる程度だった。
しかし、その五分後に家のインターホンが鳴ると、彼女は普段通りの日曜日に僅かなざわめきを覚えた。呼び鈴一つで胸がざわめく自分に思わず苦笑いした。そして、彼女はゆっくりと食べかけのサンドウィッチを皿に置くと、大きく一度息を吐き、ストレートにまとまらない長い髪を結いもせずに、料理して着けたエプロンをはずすのも忘れて、玄関へと向かった。
玄関で彼女を待っていたのは宅配便の配達員だった。
「お届け物です」
と無愛想に群青色のキャップを被った若い配達員が言うと、彼女は特に返事もなく、相手が差し出した届け物を受け取り、踵(きびす)を返した。
「ああ、ちょっと。ハンコ、ハンコお願いしますよ」
面倒臭そうに配達員が言うと、彼女は一瞬背筋を伸ばして、
「あ、ごめんなさい」
掠れた声で言葉を漏らし、届け物を一旦フローリングの床に置いてハンコを取りに行った。そして、捺印した後「ありがとうっざいしたぁ」と配達員が出鱈目な口調で答えてドアを閉めると、馴染み深い日曜日の静寂が彼女を包んだ。
結局、一時の喧騒は彼女にとってはただの煩瑣だった。彼女は深呼吸をするといつもの日曜日が戻ってきた感覚を取り戻し、荷物を持ってダイニングへ帰った。
白さが目立つダイニング・ルーム。
そこにあるのは二つのイスに挟まれ、やはり白色のタペストリーのマットが敷かれたテーブル。その上に置かれた食べかけのサンドウィッチと、花瓶に飾られた紅紫色のアネモネ。白い部屋にあるのは、それらのみ。他といえば、白い壁紙に残る、明らかにはずしたばかりと思わせる絵画の額縁の、鮮やかな黒枠の痕跡ぐらい。
その部屋は一人で食事するには寂しく、また、広すぎた。
彼女は先ほど届けられた荷物をテーブルに置くと、訝しげにそれを見つめた。届け先の名義は確かに彼女の名前が書いてあるが、送り主の名前が彼女には覚えがなかったのである。ただ送り主の名前をよく見ると、それは何処かの店先から届けられた、という事は理解できた。何の店かが分からない、何処の店かも分からない。
しばらく彼女はそれを見つめて、食べかけのサンドウィッチを無聊に口に放りながら、変わらぬ日曜日をつとめていた。だが、ミルクを飲み一通りサンドウィッチを食べ終えると、猜疑心よりも好奇心が勝り、その小包を開け始めた。中には丁寧に包装されたワインが一本、それと箱の隅にカードが一枚入っていた。ラベルに「アンジューブラン」と記されている白ワイン。そして、カードには「Let me wish you a happy birthday!」という文字が踊るように万年筆で濃く書かれ、その端には彼女の夫の名前があった。
「あっ」
彼女のその僅かな声響(せいきょう)には、二つの不意が混在していた。
一つは今日が自分の二十九歳の誕生日だったということ。
もう一つは一ヶ月前に事故で死んでしまった夫から、バースデイ・カードと誕生日プレゼントが届いたということ。
彼女の夫は二十代の若さで「自分の可能性を賭けてみたいんだ」と言って、何の頼りもツテもなく、なけなしの貯金だけを元に、自らの事業を展開していった。当時、彼と交際していた彼女の方からすればその考えには賛成できなかった。そうしたら結婚の計画が長引いてしまうし、何よりもまだ独立するには人生経験が少なすぎる、と。
だが、夫は持ち前のバイタリティと行動力で彼女の意見も聞かず脱サラを押し切り、会社を設立し見事それを軌道に乗せた。「若さに勝るものはないさ」と不敵に笑っていた彼の横顔を彼女はまだ覚えている。しかし、夫が自信満々にそう言って見せても彼女には不安は残っていた。
そして、そんな不安の中、彼女は彼と結ばれた。「順調なのよ。何もかもがうまくいっているの、そうよ」と自分に言い聞かせながら。
彼女の不安を他所に、グレート・ギャッツビーのサクセス・ストーリーのように夫の事業はうまく進んでいった。南京虫が出る狭い雑居部屋はデザイナーズ・ハウスの郊外に位置するモダンな屋敷に変わり、油の切れた自転車は銀色の高級感のあるセダンの外車になった。
だが、何よりも夫がこだわったのは自宅の地下にワイン・カーブを備えることだった。夫はワインに対しては特別な思い入れがあった。生活が貧しくお金がなくとも、特別な記念日には値段は安いものの、必ずワインを買って開けたのである。例えばそれは彼女と初めてデートをした日、初めてキスをした夜、お互いの誕生日に。彼はいつもそんな日には傍らにワインを置いていた。その彼の細やかな神経というか気配りに、さすがの彼女も辟易する感があるほどだった。
しかし、特別に夫はワインが好きという訳ではない。彼女もそうなのだが、彼もまたアルコールに弱いのである。夫にとってワインとは一点豪華主義のアイテムであり、貧しい時分の裕福の憧憬(しょうけい)だったのだ。だから、ワインに対して深い見識も拘泥した趣向もない。そんな本意とは裏腹に「たくさん稼いだら、ワイン・カーブがあるような家を建てるんだ」と言っていた彼の口癖は、やがて現実になったのである。
だが、その現実は冬の残映のように儚く短かった。所詮は付け焼刃な事業計画と、自営をするには浅薄な実務経験。取引先の不渡りを端緒に、資本が乏しい夫の会社の屋台骨は即効的に傾き、危機に直面して舵をとる能力がなかった彼は、その場を切り抜ける解決策が見つからず、呆気なく自らの会社を倒産させてしまった。残ったのは例の如く負債の山。借金を返すためにローンを終えたばかりの家は差し押さえられ、ダイニングに飾ってあった、画商から譲り受けた絵も売り払ってしまった。数えるばかりの彼女の持っていたブランド品もなくなった。夫の自慢のワイン・コレクションも手元から去っていった。家中売れる可能性のあるものは全て債権者によって取られていったが、それでも借金は全額返済できなかった。そして、彼女が手首を見て目眩にも似た覚悟をした頃だった。夫が事故で死んだのは……
今、彼女が住んでいるこの家ももうすぐ他人の手に渡る。それでも夫の生命保険分の金額を足せば、彼女一人がやり直していくには十分だった。つまり、夫の死によって借金は返せたのである。その皮肉とも自己責任とも取れる、痛烈かつ偶発的な弁済によって彼女の生活は一応の安定を取り戻す。夫の死による喪失感。また、借金を返せた事による安堵感。不均衡な感情が入り交じり、彼女は夫に対して哀(あい)ある惜別の涙を流すことはなかった。いや、素直な滂沱(ぼうだ)に躊躇していた。
偶然の事故だったのか? それとも……?
当時は夫の死は自らが行なった故意的な、つまり、自殺、したのではないか、という疑いを彼女は持っていた。あまりにも死のタイミングが、当時の苦境とリンクし過ぎている。その解決策としての自死。彼女がそう慮るのも無理はなかった。保険会社もあからさまではないが、さりげなく意味深な問いを何度か彼女に尋ねてきた。無論、夫の死は彼女が作為的に行なった事ではない。それは自明の理だが彼女が一番分かっている。だから彼女は疑いをもたれとしても、それに対してはほとんど聞き逃して、感情的になる事もなく静かに時が過ぎるのを待った。案の定、直ぐに彼女の疑惑は晴れた。
それよりも彼女が気懸りだったのは夫の気持ち。自分にとって何らかの納得できる真実が彼女には欲しかった。
それは夫の心意を窺わなければならないこと。だが、未亡人となった今の彼女には知る由もない。その後、彼、夫の死については深く詮索しないように心懸けてはいるが、やはり完全には拭いきれない。
幾らか心の内が整理できた今になっても。
しかし、現在の問題は目の前のワイン。彼女はもう一度送り主の店名を確認した。そして、その店は夫が生前よくワインを注文していた、ワイン専門店だという事に気づいた。
「…………」
彼女は肘をテーブルに置きながら、左右の腕を交差させ両肩を抱えると、ゆっくりと唇をその腕に沈めていった。
あれは二ヶ月ぐらい前だったかしら。借金を返すための資金繰りで忙しかった頃。そう、夜中に家財道具の売値をチラシの裏に書き込みながら計算していた時、突然彼が私の背後から言ったんだわ。「君の誕生日プレゼントさ、もう決めといたから」って。私は彼の方も振り向かず「こんな大変な時に何を言っているの」と怒鳴っただけだった。そうか、もうあの時に用意していたのね。今日届くようにって。だから、彼が亡くなった今になって。
苛立ち。
足の小指を何度もぶつけているような、禍禍(まがまが)しい痛みにも似た負の感情。当時、彼女を突き動かしていたのはそれだけだった。死線にも近いストレスは、やがて純度の薄い至って陳腐な夫への憎しみに変わっていった。
そもそも会社を設立した時に使った貯金は二人で貯めたものじゃない! 私は事業に賛成した覚えはないわ! どうしてあなたの失敗で私が苦しまなければならないの? 等々、ありとあらゆる不平不満を押し黙ってすっかり小さくなってしまった夫の背中に、彼女は次々と辛辣な言葉を浴びせ続けていた。彼女のヒステリックな罵声も理屈では合っているし、実際夫も暗黙の許容をしていた。だが、それは事業が成功していた頃、彼女が享受していた恩恵を完全に無視した上での台詞だった。
私は自分の都合でものを言っている。
そう自覚しながらも彼女は夫に必要以上の八つ当たりをしていた。とにかくその頃はその場から逃げたかった。目の前にある艱難辛苦(かんなんしんく)から脱するために離婚も考えた。しかし、それは出来なかった。離婚という選択肢は夫を見捨てるということ。それだけは避けたい、と彼女は思った。それは夫への切なる愛、というよりは自らの良心への依拠。それとも、ただ世間体を気にしての事だったのか。
今となっては当時の心情を思い出せない。いや、あえて顧みたくもない。どちらにしても、自制しているのが夫への想いでない分、彼女は執拗に夫を叱咤したのだった。夫が死した時に湧いた、悲しみを包み隠すような脱力した安堵感。どうして涙は出て来ないのか、とその時は疑問に思っていたが、改めて彼女は分かった気がしてきた。
あなたと結婚しなければよかった。
彼女がその台詞を言った時に見せた、夫の苦笑いした顔が彼女の記憶をよぎる。
「ワイン、か」
彼女はテーブルに置いてある桐の箱からワインを取り出した。
アンジュー・ブランという名のワイン。
どこかで見た事のあるワインだと彼女は思う。いつだったかは分からないが、かなり昔に一度飲んだ事があるような……。
彼女が過去を探る中、連想して出てきたのはどうしてかチーズだった。
「そうだ。クリーム・チーズだ」
このワインは確かに一度飲んだ事がある。ずいぶんと前の話だったけど、「このワインにはクリーム・チーズがよく合うんだ。味は、そうだな。値段はリーズナブルだけど、口にしつこく残らないし甘口な感じで品がある。女性向けってやつかな。でも、ロワールのワインなんだよね、これは。俺はどちらかというとフランスのワインなら、柔らかい味でも深みのあるボルドーのワインの方が好きなんだよ。ロワールのワインってのは……そう、まだ味が若いんだよね」と若い時分で彼が、仕入れたばかりの知識で喋っていた事があったわ。自分の知っている限りの薀蓄をいっぱい語っていたけど、ワインの方はほとんど飲めないから、その時は私も彼もクリーム・チーズばかりを食べてたっけ。
ワインから滲み出た追想に思わず彼女は笑みをこぼした。さらにその回顧にこう付け足した。クリーム・チーズが思い出深いワインだけれど、他にもまだあったような、と。
「それにしてもあの人らしい、いつものプレゼントね」
やや疲れた表情で彼女はそう呟き、手に持っていたそのワインをゆっくりとテーブル置いた。
するとテーブルに置かれてあるアネモネの花が目に入った。彼女は急に思いついたように、アネモネの花瓶の水を取り替えるため台所へと向かった。蛇口を緩くひねり水道の水を出す。水を取り替え、花瓶をテーブルの中央に置くと、瞬きを忘れた目の奥で、不意に夫が彼女の肩に手をかけた光景と言葉が浮かびあがった。それはデートの際に彼女が好きなアネモネを花屋で見ていた時の光景。そして、「アネモネは神様が流した涙の花という伝説があるんだ」と夫が彼女の肩に手を添えて言った時の言葉。それは彼女の瞳に映るアネモネに託された遠い思い出。だが、すぐにアネモネから隣のワインに目を移してしまった。
彼にとっては富のシンボルであったであろう数々のワイン。一時期は私よりもワインの方が好きなんじゃないかと思ったけれど、結局ワインは消えていった。そして、私の前からは彼が……まるでワインに殉じていったかのように。彼は私よりもワインを選んだのかしら。私の雑言の中で逝ってしまった彼。心労ばかりを私が増やしていたのだとしたら、それは当然なのかも知れない。
感傷的な自責の念。
馬鹿げたワインへの嫉妬心。
果たして夫を最期まで愛しきれたのだろうか?
そんな疑懐(ぎかい)の思い。しかし、それらはミゼラブル(悲劇)をデコレートする為の、単なるレトリックなのかも知れない、と彼女は一方で感じていた。その理由として彼女には、私は私なりにベストを尽くしたんだ、という自負が脳裏にあったからだ。
「嫌だな」
彼女は掠れた声で言った。今も心に残る夫の死。その死の残痕が果たして悲しみとして括れたならば、救われたのだろうか。それともいっそのこと憎しみで色を染めたら良かったのだろうか。どちらでもいいから何かしら一つの感情に、彼女は身を委ねたかった。漠然としたエキリブリアム(心の平静)だとしても。
冷静に考えれば私の悩みは簡単に分析できる。いえ、悩みという言葉自体おかしい。つまり、私は悲劇に浸りきっていない自分に、すごくプレッシャーを感じているということ。私が不快に思っているのはそれなのよ。どこかで見たドラマの悲劇のヒロインのように、失意に悶え、葛藤する事ができたならばそれで満足してたんだわ。悲しみなんて一過性のものなんだから。それに対して滅茶苦茶に泣いてしまえばスッキリしたはず。感泣はストレス解消の手段だったじゃない。泣く原因が夫の死だからだって、それはきっと同じよ。変にためらう方がおかしい。ためらっているから自虐的な考え方をしているんだわ。自分を責めてもっとドラマティックにしようと。単に贅沢なカタルシスを求めしすぎているのよ。
花瓶の水を取り替えたばかりの、アネモネの八重咲きの花びらから雫が落ちた。テーブルにこぼれた凸レンズのような水滴に彼女は気づくと、
「本当に嫌になる」
と言って干る瞳が、思い出したかのように何度も瞬きをした。
失意。哀悼。悔悟。嫌悪。救済。
精神が何を求め、何を欲しているのか。
それとも忘れたいのか、忘れたくないのか。
今の彼女には分からなかった。ただ、せめて彼が死ぬ前に喧嘩をしていれば何か変わっていたかも知れない、と思った。一方的ではなく、お互いが全ての感情を顕わにして、二度と口も聞きたくない程の大ゲンカをしていれば、と。二人の気持ちを言い切り、何もかもを吐き出せたような喧嘩を。
しかし、その考えもすぐに払拭してしまう。
そう考えるのはズルいわ。絶対にあの頃の私なら、彼の話なんて聞くことなんてなかったはず。それに実際彼は黙りっぱなしだった。私がどれだけ強く言っても、彼は何も言い返さなかった。卑怯ね、私は。
やはり帰結すべき点は自虐的な感想なのだろうか。さらに彼女の思い出のヴィジョンに夫の台詞が湧いて出てくる。
私たちが付き合って間もない頃、彼は言った。「君は大人しいな。内気なのかな、やっぱり。それとも俺と一緒にいてもつまらないかな?」……心配そうに私を見つめた彼の表情は今でも覚えている。その時、唇が届きそうなくらい彼は私の顔を覗いてきた。口づけは初めてだったから、体中の温度が一気に頬に集まった気がした。「そんなことない!」と言おうとしたのに、緊張していたために私はその一言が出ず、頬を紅く染めていただけだった。多分それからだったと思う。口数の少ない、おとなしい女を彼の前で少しずつ演じてきたのは。家族や友達の前ではおしゃべりとは言わないまでも、積極的に自分の方からしゃべっていた。だけど彼に対しては違った。私はあくまで物静かな女だった。それは彼がそういう女性がタイプだと思ったから。付き合い始めた頃は、彼に慣れていないため口数の少ない性格だと思われていた。だけど、それがしばらく続くうちに私と彼が気の置けない仲になっても、おとなしく慎ましい女性であろうと思った。だって彼はそんな私を好きになって、実際そうする事によって私たちはうまく付き合っていけたのだから。私は内気な性格を演じていた事に、正直それほど悪い印象はない。演じる、という言葉があまり良い使い方ではないけど、全部が全部私自身を誤魔化していた訳ではないから。好きな人の前では誰でも良く見られていたい。それは簡単な化粧みたいなもの。私は彼の前では確かにおとなしかったけど、別にそれに対して「これは本当の自分じゃない」なんて感じた事はない。つまり、彼の前ではにかむ自分も、やっぱりそれはそれで私なんだと認識できたからだと思う。ただ、彼の事業の失敗で、散々彼を責めていた私は彼にどう映っていたのか? 普段は黙って彼の腕に抱かれていた私が、突然吐き出すように彼に怒鳴り散らし始めた私は、彼にはどう映っていたのか? もちろんそんな私もやっぱり私自身。苛立ちで人に当たり散らすのも私なのだから。だけど、そんな私を何も言わず受け止めていた彼の姿が鮮明に残っている。私が怒鳴った後に見せた彼の弱々しい笑顔も……もし、あの時、彼が不安そうな顔で、唇に触れそうな距離で私に尋ねた時、私が「そんなことない!」と素直に返せたら、その後は違っていたかも知れない。借金で苦しんでいた頃の、私の苛立ちに対して、彼も自分の怒りを言い返していたかも知れない。喧嘩が出来たかも知れない。他人が見たら呆れるような夫婦喧嘩が。あの瞬間「そんなことない!」と言えたなら。
あの時、ああしていれば。全ては過日の仮令(たとい)。無論、それは彼女も納得している。一度も喧嘩らしい喧嘩をしてこなかった事に、一抹の寂しさが走っただけ。彼女は半ば強引にそうやって毎度、逡巡の幕を下ろす。
想いに耽る彼女の側で、やにわに微風が吹き抜けた。レースのカーテンが揺れると、テラスに干していた洗濯物が覗ける。彼女の目に灰色の群雲で濁った空が見えた。
このままではもうすぐ降りだすな。
彼女はそう思い洗濯物を取り込み始めた。予め乾燥機にかけてはいたのだが、早朝からずっと天気が曇っていたため、ブラウスやショーツは乾ききっていなかった。
一連の洗濯物を室内のフック付きハンガーに掛け終えると、粉っぽい喉の渇きを彼女は覚えた。手元に置いてあるワインを、光沢の薄れた爪で弾くと、彼女は霞んだ声で一人囁く。
「飲んでみよう、かな」
彼女はシンクの上にある、食器戸棚に僅かに残ったグラスを持ってきた。次にワインのコルクを抜くためのワイン・オープナーを探し始めたが、戸棚にそれが見つからなかった。その時、彼女の目に冷蔵庫の扉にマグネットで張り付いてある、デジタル式の小型時計が目に入った。
時間は午前十一時三十二分。
唐突に彼女の頭に、まだ間に合うかも知れない、という漠然とした思いがよぎった。
ワイン・オープナーを探している腕が自然に止まる。ゆっくりと彼女は腰を沈ませ席に座り、脈絡のない着想に思索を絡めていく。
間に合うかも知れない、と。
一体何に対してそう思ったのかしら?
淡彩な緑玉石色(りょくぎょくせきいろ)のワイン・ボトルを、彼女はじっくりと見つめた。奇妙にして曖昧な想念に意識を傾けながら。
「あ、そうか」
彼女の凝縮された言葉はさらに、
「ワイン・カーブに行こうと思ったからだ」
という言葉につながった。ここにワイン・オープナーがないとすると、他にあるとしたらワイン・カーブしかない、と彼女は考えた。
そして、そのワイン・カーブ。そこはまだ彼女が一度も入った事が場所であった。
ワインは保存が難しいんだ、と言って彼女をワイン・カーブに入れなかった夫。彼女に対しては十分に理解し寛容だった夫も、その約束だけは厳しく言っていた。無論、当時は理想の妻を気取っていた彼女も素直にその言葉に従っていた。また、彼女の方もワインには大して興味がなかったので、あえてワインが保管してあるワイン・カーブを覗いた事はなかったし、入ってみたいと思った事もなかった。
夫がなくなってからも、ずっと。
だからワイン・オープナーを探すのがきっかけとなって、家を手放す前に一度ワイン・カーブを見てみようと思ったんだ。
そんな思惟を、先ほど頭によぎった「まだ間に合うかも知れない」という意味の帰結点に彼女はした。完全とした一致の確信ではなかったが。
彼女はそう得心するとエプロンをはずし、髪を後ろにヘアピンで束ねて、リビングへ向かおうとした。だが、その前に少しワインを冷やしておこう、と気づきワインを冷蔵庫に入れた。リビングへ行きキー・ケースからワイン・カーブの部屋の鍵を取ると、庭を抜け物置の横にある、地下ガレージへつながる備え付きのドアを開けた。そのガレージの奥の個室がワイン・カーブとなっている。
彼女は地下ガレージに着くと明かりを点けた。実用と観賞用の高級車を分けて、かつては車が二台置いてあったガレージ。今では彼女が買い物の際に使用する自転車や、隅の方で申し訳なさそうに置いてある、使い古しの洗車用具くらいしかそこにはなかった。車二台分を置くスペースとしてはやや狭かったこのガレージ。だが、今では充満する空気すらも持て余すような空間が広がっている。
少し緊張した面持ちで、樫の木で作られたワイン・カーブのドアの前に彼女が立つと、無意識にノックをしようとしてしまった。ノックしようとした右手を、どうしてか彼女は慌てて左手で覆うように下ろした。そして、一度息を吐いてからドアの鍵を差し込む。すると鍵穴、鍵を通じて冷渋した涼気を覚えた気がした。だが、扉を開けると思ったほど部屋は涼しい気配はなかった。明かりのスイッチを点けると、蛍光灯が頼りなく発光した。
「そうよね。ここの空調設備はもう動いてなかったんだわ」
自身に納得するように説明的な口調で彼女は言うと、六畳ほどの広さのワイン・カーブを見渡した。レンガ造りの壁の周りには、木製のワイン・ラックが彼女の頭の高さぐらいまで、五段に仕切られて囲ってあった。だが、肝心のワインはそこに置いてない。無論、それは借金返済のためワインを売り払ってしまったからだ。ワインを保存するための部屋に、主役たるワインが存在しない。先のガレージに車が存在しないように。
彼女は改めてこの家が形骸化していく事を認識した。
「何も間に合ってなんかいないわ」
捨てるように早口で彼女は呟く。すでにワインはここにない。それが象徴的な幕引きい彼女は感じた。
私はここに彼の残像があるとでも思ったのかしら。だとしたら、馬鹿みたい。言い訳ばかりして。
このワイン・カーブで改悛の情を感じようと思ったのか。彼女は強引に心の棘に当たろうと試みる。行き違った過去に。そして、ただ心の隙間風が駆け抜けていくだけになるであろう、なお続く長い明日に。
彼女が息を吸うと、薄暗い部屋の中では乾いた匂いばかりが鼻についた。
考えてみれば不思議なものね。自分の家で一度も入った事のない部屋があったなんて。今思えば彼に頼んで、一度くらいここを覗かしてもらっても良かった気がする。それにしてもおかしいのは、今まで一度も入った事のなかったこの部屋に、何も新鮮さを覚えないこと。神秘的とは言わないまでも、ちょっとした感慨があってもいいと思うんだけど。
確かに初体験の感じではなかった。既視感にも似た懐かしい気分でもない。この部屋はすでにそこに在った。それだけが彼女の頭に巡っていた。彼女がラックの縁を人差し指で擦ってみると、思ったほど埃は付かなかった。
「一体ここにどれ位のワインが置いてあったのかしら」
この部屋にどれだけのワインがあったのか。このラックいっぱいにワインは埋まっていたのだろうか。しばらく彼女はそんな想像をしてみた。
想いにふけた後、彼女はワイン・オープナーを探そうとしたが見つからなかった。しかし、小さな金属製の箱の上にコークスクリューがあった。ワイン・オープナーの代わりにコークスクリューを手にすると、その下の金属の箱の方に彼女の目がいった。
それはワインセラーだった。そのワインセラーはまだ機能しており、開けてみると冷気が流れてきた。中は五段に上下が区分けされていて、三十本近くのワインが寝かされて入っていた。だが、よく見ると最上段とその下の段のボトルは空になっていた。また、中にある全てのワインに札が括ってある。彼女はその中の半分ほど空いたワインを手に持ってみた。それはブルゴーニュの赤で、銘柄は「シャンベルタン」。弱々しい光の中でそれは紅玉の艶を浮かばせた。シャンベルタンに括ってある札には日付が記されてあった。最初はワインの製造年月日等ではないかと彼女は思った。だが、〈~二人の結婚記念日に〉と札の隅に添え書き程度の書き込みがあるのに気づくと日付を確認し、このワインは結婚記念日飲んだものであると思い出した。
ああ、これ。あの時の結婚記念日に飲んだものだ。ちょうど彼の事業が波に乗り始めた時期。あの晩はお芝居を見に行ったんだ。確かシェイクスピアの「真夏の世の夢」だったわ。私の好きな演出家の人だったし、出演者も著名な人ばかりだったけど、大雑把な印象ばかりが多くて、テレビでも見ているような一方的な芝居だったような感じがして、損をした気分になったんだ。彼にそんな風にグチをこぼしていたんだっけ。その後に例の如く彼がワインを開けたんだわ。「分かっていたけど、やっぱりまたワインなの?」と私が尋ねて彼が、「つまらない劇を見ても、ワインを喉に通したら溜飲が下がるさ」と答えた。私がまた、「そんな事言ってあなただってほとんど飲めないのに」と返して、「それを言うなよ。気分が損ねるからさ」と彼が言って……その夜の朧な言葉と場面を想起した。少し踵が高かった買ったばかりのヒール。珍しくベストを着込んだ夫。毎度のようにワインはあまり飲む事はなく、結局はフランス・パンで散らかったテーブル。彼女がゆっくりと記憶のフラグメントを拾い始めると、それは額縁に飾れるような鮮やかな思い出の画になった。
「飲んだ。僅かだったけど、確かにこのワインはかつて飲んだんだ」
彼女はシャンベルタンを握りながら、力強く確信を込めた言葉で言った。
そして、他のワインの札を見てみると、同じように日付が記してあった。結婚記念日に飲んだワイン。誕生日に開けたワイン。旅行をした時に口にしたワイン等々。記念日になるような日、思い出になるような夜に飲んだワインがここにはあった。二人のシーンに添えてあった、二人だけのワインが。今まで彼女が夫と一緒に飲んできたワインは、二人ともお酒が弱かったのでいつも残ってしまった。だから彼女は残ってしまったワインは、夫が連れてきた会社の同僚や友人たちと一緒に飲む際のお酒になっていたと思っていた。しかし、ワインはまだここにあったのである。夫は一人でこれらのワインを少しずつ飲んできたのかも知れない。そんな直感が彼女に走った。
コレクションで集めたワインは、仕事や遊びを介して他の人たちと飲んでいたが、二人のワインはそうではなかった。
私には記念になるような日以外、夫はワインを勧めなかったから、残ったワインは一人で飲んでいたのね、きっと。私と同じくらいお酒が弱いくせに。
彼女はうつむいて下唇をかみ締めた。そして、数本ある空のボトルを見つめた。
「空のボトルまで残して」
空のボトルにもそれぞれ札は括ってあった。彼女は持っているワインを元に戻し、最上段の左端の空のボトルを手にした。そのボトルのラベルにはアンジュー・ブランと記されてある。そして、札には日付とともに〈~初めてのデートの日に〉と書いてあった。
「そうだった」
聞こえないくらいの途切れがちな声で言うと、クリーム・チーズの片割れを思い出した。それは大事な片割れだった。
注意して見るとワインは最上級の左端から右下に進むにつれて日付が新しくなり、また徐々に値段が高くなっていた。最下段にはシャトー・ディケムやモンラッシェ、ロマネ・コンティ等の高価な空のワイン・ボトルがひしめいている。アンジュー・ブランは家を建てる前の、事業を始める前の、そして、結婚する遥か前に飲んだワインだった。
それは二人で肩を寄せ合い、体を温めあった貧しい頃。
やがて彼女はワイン・カーブを出て、ダイニングへ戻った。冷蔵庫に入れていたアンジュー・ブランを取り出すと、時計の針は昼の十二時を回っていた。
「さあて、まだ昼間だけど飲んじゃおうかな」
明快に声を張ると、慣れない手つきでコークスクリューを扱い、アンジュー・ブランのコルクを抜いた。
白ワインとロゼは早めに飲んだ方がうまいんだよ。
そんな夫の言葉を頭の中で彼女は見つけた。まだまだ記憶の欠片がうまっていきそうだ。そんな予感が走る。不意に胸が躍る。
グラスの半分ほどにワインを注ぐ。彼女はテイスティングの真似をしてみようと、香りを楽しみグラスの脚をつまんでワインを回してみた。薄暗い部屋の中で、梨色に映るワイン・グラスを黙って見つめていると、雨音が庭から少しずつ鳴り始めた。
今日の雨は強くなりそうだ。
彼女は外を見もせずにその兆しを覚える。そして、ゆっくりとグラスを口に近づけて、懐かしい色をしたワインを喉に通した。不思議とお酒を飲んだ際に感じていた、鼻にさすような痛感がなかった。
このワインには温度がある。
彼女は人肌に近い温もりを感じていた。また、もう一度このお酒を彼と一緒に飲めていたら、どんなにおいしかっただろう、とも。
彼はいつも先ばかり進もうとした。人の話も聞かず周りも見ないで。それが彼の悪い所で欠点だった。だけど、そんな彼を私は好きだったんだ。そうだ、大好きだったんだ。恥ずかしいくらい少女のような乙女心を募らせて。
閉じた瞼がその想いを焼きつけると、彼女はグラスに注いだワインを一気に飲み干した。すると無機質なダイニングに彩りが広がっていく気がした。額縁の飾ってあった黒枠の跡にも、溢れるほど敷き詰まって。
すると、彼女が先ほどまで抱いていた、予感、が朧げに再び脳裏に浮かび始めた。
これから私に、悲しみ、がやってくる、と。
悲しみからの解放ではない。悲しみとの別れでもない。それはようやっと迎える悲しみの始まり。心から望んでいた悲しみとの出会い。
しばらくしたら止め処なく残酷で絶望的な悲しみに襲われて、私はとても立ち直れない気持ちに苛まれるだろう。
彼女はベランダの外で降る、滂沱(ぼうだ)のような雨を眺めながら、そう胸に慕らせた。
だが、彼女は一方で想う。これから来るべき悲しみは、生涯の中で記憶に残しておきたい気持ちだと。
彼女はそのように願う。
ただ痛切に。
そして、テーブルのアネモネが雨の日の蒼い匂いと混ざり、柔和な芳香を漂わせる頃。霞むような早春の薫りに隠れて、彼女の瞳から「……happy birthday!」と書かれたカードに一片の光が零れた。
了
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