真神

2/6
27人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
 ある日、山に登った時のことである。何か小説の題材になりそうなものはないかと散策していたところ、古びた祠と、鳥居、そして一匹の狼を発見した。きっと昔は立派な社であったのだろう。木で出来た部分は悉く朽ち果て、石造りの祠と鳥居しか残っていない。対して、その狼は推測の必要もなく立派なものだった。すらりとした身体に、艶やかな白い毛並み。寝ているのだろう、微かに体躯が上下していた。その姿でさえ映えて見えた。  「綺麗だ」  自然に言葉が漏れた。誰に聞かせるともなく呟いたのは、そうしなければ溢れてしまいそうだったからだ。  ――私のことが見えるのですか。  ある筈のない反応があった。狼が身体を起こし、その琥珀色の眼でこちらを見ていた。  人語を解しているようだった。それは驚きだったが、返答をする方が先決だった。質問に答えないのは、不躾だからだ。  「見えていますよ」  ――そうですか。  何故か、“彼女”は嬉しそうだった。その声は玲瓏と言うに相応しく、優しく空気に溶けて行った。  「見えないのが普通なのでしょうか」  ――今は、そうでしょうね。昔は違ったのですが。そう言う意味では、あなたは変わっている。  「あなたは一体、何者なのですか」  ただの狼である筈はなかった。  ――昔は真神などと呼ばれておりました。  「真神・・・」  ――過ぎた名前でしょう。神に祀り上げられただけの、ただの獣ですよ。  その言葉は、その眼は、冗談を言っているようには思えなかった。  ここは、彼女の社だったのだろうか。信仰は廃れてしまったのだろう。僅かに残った祠でさえ、人の手が入っているようには見えなかった。  ――私の姿を見て取れる人は、本当に久しぶりです。たまさか人が来ることはあるのですが、皆、脇目も振らずに登っていくのですよ。  神への信仰は、薄れつつある。それは少しでも宗教を齧ったことのある人間なら、誰もが感じていることだった。技術の進歩は様々なものに利便性を付与した。利便性の付与されなかったものは、即ち不要なものと見なされ、放棄された。神と人間の関係は形骸化し、そこにあった絆と契約は失われてしまった。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!