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「朽ちる前に、誰かが拾い上げたならばどうです」
――…それは素敵ですね。
くすり、と笑ってそう言う。
僕は何とはなしに一片、桜の花びらを拾い、手帳の頁と頁に挟んだ。
時々訪れる登山客のために、道は踏み固められている。ふと茂みの奥に、崩れた瓦礫が見えた。
覗いてみると、彼女のものに似ていた。
――それも私の祠です。
「幾つもあるのですか」
――目印みたいなものなのです。かつてそこには家屋と畑があったのですよ。主人は実に信心深く、良く供え物をしていました。童と戯れることもしばしば…。後を継ぐ者が居らず、今は野晒しです。
まるで昨日のことのように、彼女は話す。
祠の跡を覆うその茂みの中に、クサイチゴの実が生っているのが見えた。桜と同時期に実が出来ていると言うのは、おかしな話だ。
――変わっているでしょう。いつ見ても実が生っている。
「頂いても?」
――私に聞かずとも。
「きっと、あなたへの供物でしょうから」
一つ摘み取って、差し出す。彼女はそれを優しく手の平から咥え、嚥下した。
――…ああ。
眼を細め、頷く。
――初めて食べた筈なのですけれど。何故でしょう、懐かしい気がします。
僕も相伴に預かることにし、紅いその果実を一つ、口に放り込む。ぷちぷちとした種の感触と、薄い酸味、そして最後にしっかりとした甘みが広がる。
ああ、と僕も頷いた。
優しい味だ。
小説の題材はもう十分だったが、その後も山に足を運んだ。取材の期間は多めにとってあった。山の情景や、渓谷の風景を、彼女と共に巡った。そこには誰が、ここにはどれが、往時茫々の彼方を思い浮かべながら。
――読めませんよ。
石の上に座り込み、下書きを進める僕に彼女は言った。
「これで完成ではありませんから」
――そうなのですか。
「ええ。完成した暁には、またここへ来ますよ」
――…それは楽しみですね。
そう言ってくすりとした彼女の本意を、僕はどうやら理解出来ていなかった。何故ならその後無事雑誌に掲載され、好評を博し、僕の懐へ破格の原稿料を舞い込んだ『忘却と祝福』は、ついぞ彼女の元へ届くことはなかったからだ。
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