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そこへ男が帰って来る。
「おせいさん?こんなところでどうしたんですか?」
「ああ、なんでもないよ。おかえり。早かったね。」
「今帰りました。今日は座敷が少なく、板場が早く上がりましたので。」
「そうかい。いつもご苦労さま。」
「いえ。
あ、これ頂き物ですが、お饅頭です。」
「じゃあ、今お茶を入れよう。」
「はい。
今日は天気もいいし、ここから庭の桜を眺めながらお花見とするのもいいですね。」
「桜か…。」
「桜が咲く頃なら、伊佐さんが来てもう一年になるんだね。
私が昔読んだ草双紙からつけた『伊佐吉』って名前も馴染んじまって。」
「はい…すみません。あのまま一年もお世話になって。」
「謝ることなんてないよ。
お世話になってと言うけれど、伊佐さんは宿の板場で働いて、自分の分だけじゃなく私の分まで稼いでくれる。
私の方がお礼を言わなきゃね。」
「そんな、お礼だなんて!」
「本当のことだよ。
でも伊佐さんが包丁を握れるってわかった時には驚いたね。
手に筆やそろばんだことは違った跡があって、偶然包丁を握ったら見事な手つきだったものね。
でも、『前は板前かなにかだったのだろう』とわかるくらいで、他のことは今も思い出せないままだものね。
家族も心配しているだろうし、名前だって本当の名前じゃない。
早く思い出せるといいね。」
「…。」
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