第1章

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   「彼女、 ギター貸してみてくんね・・・。」 三十手前だろうか? スーツ姿のサラリーマンが、 スーツケースを転がしながら近寄って来て、 聴き取り難い小声で言った。 普段なら、 見知らぬ人に自分の大事なギターを 手渡すような事は、 勿論するはずもない。 溺れた子が、 浮き輪を掴む様な気持ちだっただろうか? 私は夢中で言われるままに、 肩から外したギターを彼に手渡した。 代わりに彼は脱いだ背広を私に渡すと、 ギターを肩に掛けて向こうを向いて、 一礼してから演奏を始めた。 上手だった。 イントロが始まると、 去ろうとした人はまた戻り、 通り抜けようとした人も立ち止まった。 桜と彼の旋律が、 互いに引き立て合っている様に、 辺りを幻想に誘ってゆくのがわかった。  話し掛けて来た時の小声とは違って、 澄み切った高音が夜桜を縫って走った。 彼の歌を聴いて、 扇型に私たちを囲んでいた人の中には 涙ぐむ者もいた。 でも、一番泣いていたのはきっと私だった。 彼の肩越しに聴こえて来たのは、 確かにあの頃聴いていた「彼」の歌だった。  夜の明かりの中を舞い落ちて来た、 桜の花びらが彼の肩に止まった。 歌い終わったら、 その花びらを取ってあげようと 心に決め乍ら、 彼の歌が終わらない事を願っていた。
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