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藤井由佳は吹奏楽部だったはずだが、陸上部の僕とは何の接点もなく、どうして急に話しかけてきたのか困惑したし緊張した。
梶井基次郎の短編集と言ってもきっと伝わらないと思ったので、今読んでいる短編のタイトルを言った。
「桜の樹の下には、ってやつ」
僕の返事の後、斎藤はすぐに
「桜の樹の下には何があるの?」
と、屈託のない顔で聞いて来る。僕はこんなことを言うと変人のように思われてしまうのではないかと躊躇いながら答えた。
「あー、死体とか?」
「え、怖いね!それおもしろい?」
顔全体で驚きを現している斎藤の様子に少し笑みが零れてしまう。
読み始めたばかりで面白いかどうかも分からなかったが、今のところ、この本は面白いし長い返事をする余裕もなかったので
「面白いよ」
と言った。すると斎藤由佳は黙ってしまったので、面白くない会話をしてしまったなと反省する。馴れない人と話す時、いつも最低限の事を答えるのがやっとだ。その人が僕の話を必要としていると思えないので、何も話すことができず黙ってしまう。
しかし相手が会話を楽しめなくなると、そのことだけ、はっきりと感じてしまうのだ。
またやってしまった。後悔と不安で内心がパニックになる。前を向いてくれないかなと願っていたら斎藤由佳が
「じゃあさ、桜の樹の上にはなにがあるのかな?」
ときらきらした表情で聞いてくる。
僕は答えに詰まる。全部は読んでいないけど、この話には桜の樹の上のことなど出てこないと思う。なら全部読んでから返事をするか?いや、全部読んでから返事をするのでは遅すぎる。僕が戸惑っている間にも、斎藤はにこにこしながら答えを待ってくれている。僕は数秒の中で必死に考えて
「空…とか?」
と答えた。言葉が口から浮く瞬間から「つまらない答えだな」と思ったが、斎藤は納得してくれたようで
「あ、それもありだね!」
と笑ってくれた。その時の斎藤の笑い方はとても気持ちの良いもので、先ほどまで会話で緊張していたことなど忘れさせてくれるようなものだった。
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