<Insanity and sanity>

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 男は茫然自失のまま幼児口調となり、虚ろな目は焦点を合わせていない。溝呂木は肉体の動作を忘れて、男の一挙一動をまるで珍しい生き物を眺めるかのように、地べたに座ったまま黙って見つめていた。男の額から薄っすらと血が滲み始めた。男が手を額に持っていくと、中指が赤く染まった。 「怖い、もう自分では死ねない。でも生きられない。駄目だ。怖い。怖い。怖すぎる」  男は血のついた指を凝視しながら、唱えるように独り言をし始めると、ゆっくり立ち上がった。そして、のそのそと緩慢な動作で防護ネットを靴も履かずによじ登り、そのまま階段へ向かい屋上から降りていった。溝呂木は呆気にとられたまま男を見送った。 「な、何だったんだ……」  溝呂木は立ち上がると、尻に付いた埃をはたいた。他にもワイシャツの襟や裾などが汚れている。 ひどく無駄な事をしてしまったな。 溝呂木はそう述懐する。 考えてみればこれから自殺するヤツを助けて、「ありがとう」などと感謝の言葉をもらえるはずはない。むしろ相手からすれば迷惑そのもの。根本的に自殺を助けるという言い方がおかしい。それにしても奇妙な男だった。もっとも、これから自殺する人間と直面した事なんて今までなかったので、相手は興奮しきってあんなパニック状態になってしまうのだろうか? 溝呂木はそのように推し量ってもみた。     
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