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薫子は本当にそれまでに築いた自身のポジションを捨ててまで、この地に住みたいと思っていたのだろうか。
本当の気持ちを知るのが怖くて結局は尋ねることすらできなかったし、今となっては確かめる術すらなくなってしまった。
自分と一緒になったことは、彼女にとって人生最大の失敗なのではないか、だからこんな残酷な目に遭わせてしまったんだと思えてならない。
自分も妻もなんて馬鹿な選択をした人間なんだと落胆するしかなかった。
すると、ぽつん。一粒の雫が鷹取の頭に落ちた。
その冷たさに肩をすくませて天井を見上げると、いつの間にかできた幾つもの水滴がぽたぽたと落ちてきて、湯船に波紋を描いた。
そんな自分を慰めるのか、あるいは責めるのか、跳ねた水滴は霧となってこの狭い空間を包んでゆく。
最後の一滴がぽちゃんと澄んだ音色を響かせた瞬間、湯船が不自然に波立った。
浴槽に目をやった鷹取の胸の奥がざわっとする。
湯船には鷹取のよく知っている姿の女性があったのだ。
心地よさそうな、幸せそうな表情。それに赤く火照った頬。
「薫子!」
声を掛けても返事はなかった。女性の視線は湯けむりに向けられたままだ。けれども鷹取の知るその女性は、湯を掌で掬って自分の肩に掛けながら、聞きなれた声で独り言を口にしはじめた。
まるで気に入った歌を口ずさむように。
鷹取は耳を澄ましてその声を掴まえる。
『お化粧しなくていい暮らしなんて幸せね。
私はこれから新しい人生を歩むの。
海風の香りを目いっぱい吸い込んで、
どこまでも高い空とお話をするの。
白い砂浜を子供と一緒に走り回って、
あなたが獲ってきた魚を私が料理するの。
晴れの日にはお布団を干してふかふかにして、
毎日ちゃんと欠かさず家のお掃除をするの。
それから熱いお風呂を沸かして、あなたの帰りを待っているの。
だから何があっても二人が終わりを迎える時まで、ずっとここで暮らしましょう。
あなたが嫌って言っても、私はきっとそうするわ。
だって私はあなたのいるこの地が、とても好きになったのだから』
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