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一晩休んだら明日、この荷物をトラックに詰め込まなければいけない。なぜなら二度とここに戻ってくるつもりはないからだ。
職を失い、家族を失い、希望を失った鷹取にとってここは既に自分が生きられる場所ではなくなっていた。今となってはかつてここで暮らした記憶があるに過ぎない。
だが記憶の遺残とは甘美で残酷なものだ。
その頃の幸せであったはずの記憶が鮮明に蘇るから、鷹取は麻縄で心臓を縛られ続けているのだ。
今日は疲れきった。所々擦り剥き、節々が軋んで痛む。
予めコンビニで買っておいたおにぎりと唐揚げを平らげる。皮肉にも一仕事終えた後の食事は普段よりも美味く感じる。
命と共に味覚が残されている事実が恨めしくてかなわない。正常な感覚すら拷問のようなものだ。狂ってしまえば楽なのだろうか。そう思い逃げるように窓へと目をやる。
街灯もないこの場所は漆黒に包まれている。冷え込んで来ると風向きは次第に海から山に移りゆき西側の窓をガタガタと揺らす。ああ、変わっていないな。
持ち込んだ毛布を纏い冷えた身体と沸き起こる後悔を覆い隠す。それでも寒さを凌ぐのには不十分で、小さくなって両掌で肩をさするが摩擦の熱は余りに頼りない。
ふと思った。
この冷え切った身体を温めることはできないだろうか?
期待はしていなかったが一応、風呂場を覗いてみる。
四方の壁がタイル張りの小さな空間はやけに静かで、来客などまるで期待していないような、閑散とした雰囲気があった。
タイル同士がつくる隙間には過ぎ去った歳月を知らしめる浅黒い黴がこびりついている。
元々そうだったろうか、いや、かつてはそうではなかったはずだと鷹取は記憶を手繰る。
成程、ここは主を失ったのだからそうなるのも仕方がない。
そう思いながら視線を移す。
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