レトルト

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キュッ。 あ、「レ」だな。 早織は浴槽を指でこすりながら音を確かめた。 キュキュッ。今度は「シ」だ。 ピカピカになった浴槽を満足そうに眺めながら、彼女はまるでクラシック音楽を鼓膜の奥で味わうかのように、目を閉じて浴槽の奏でる音に聞き入っていた。 いつからだろうか。彼女が浴槽を終の棲家にしたいと思いはじめたのは。 お風呂好きが祖父譲りであることを考えれば、おそらくは産湯の段階、いや胎児の状態からすでにお風呂好きのDNAが備わっていたのかもしれない。 どんなに嫌なことがあっても湯舟に肩まで浸かればなんとなくすべて水に流せてしまうお風呂の存在が、彼女には偉大だった。 幼い頃はよく祖父とふたりでお風呂に入り、入浴時の作法だけでなくお風呂の洗い方まで英才教育を受けた。自分たちでピカピカに磨きあげたお風呂に入るのは気持ちよく、祖父は湯舟の中で100を数えながら人の世の儚さを感じ、その隣でゆでだこになりそうな幼い彼女は人の世の長さを知った。 キュッ。こっちは「ド」だな。 ちなみに幸せそうに浴槽を指でこすり、耳を澄ましている彼女には絶対音感もなければ音楽の素養もない。それどころか風呂掃除以外にはこれといった取り柄もないし、顔が良いわけでもスタイルが良いわけでもない。なんだか田舎のスーパーの特売品のような少女だ。 女子だからといって料理が得意ということもなく、作れる料理はもっぱらレトルトで、レトルト食品しか作れないのではなくむしろレトルトが好きだから食べているのだと言い張っていた。 料理下手を隠すような言い訳の半分は本心で、お湯の中でぐつぐつと煮えるその様子がお風呂と似ていると感じていた。 温めるだけで美味しく食べることができるレトルト食品の偉大さは、お風呂に通じている。 温泉のように怪我や病気を癒してくれる科学的な効能があるわけではないが、体だけではなく冷えた心を温めてくれるものなど、お風呂をおいて他になかった。 キュキュッ。 さっきからすべて同じ音のようにも聞こえるその音を今度は「ミ」だと言い張る彼女は、音感こそないが温感、つまりお風呂の大切さを知っている。 今日もお湯を沸かして、レトルトの心を温めるのだ。
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