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6 仲田梨恵子
「それはね・・・・ううん、やっぱりやめとく。ごめん、今のナシにして。」
「なんだよそれ。」
私は言いかけた言葉を土壇場で引っ込めた。引っ込めてしまった。しかし平田君は言うなりコロナ・ビールを飲み、それ以上は追及してこない。
私が平田君のことを好きだということを彼は知っていて、それで知らない振りをしていることを私は知っている。そして、そのように私が知っていることを、彼はまた気付いていて、それでもまたそれさえも知らない振りをしている。
ああ何だかややこしい。誰かを愛すことなんて、本当はもっと簡単なはずなのに、なぜこんなにも複雑に絡み合ってしまうのだろう。
つまるところ、私たちは臆病で、不安で、足が止まっているのだ。大縄跳びに入るタイミングを見計らう余り、ずっと回転する縄の前で立ち往生してしまっている子供のように、そこに飛び込むタイミングが分からず、同時に勇気が無いだけだ。それが何も生まないってことは分かっている。けど、何も生まないと同時に、何も失わないで済むのだ。傷付かなくて済むのだ。とにかくは。
「あ、もうこんな時間だけど、大丈夫?」
平田君は時計を私に見せる。オメガ・スピードマスターの黒い文字盤に、シャープな銀色の針が十一時十分を示している。
「そうだね、そろそろ出ないと、バスがなくなるわ。」
「じゃぁ、そろそろ行こうか。」
これで今日も前進も後退もしないまま、逢瀬が終わるのだ。全力疾走しながらも、同じ場所をひたすら回り続けるメリー・ゴウ・ラウンドのように。暗澹とした気持ちと共に、どこかほっとしている私がいる。恐らくそれは平田君も同じだろう。
勘定を済ませ、店を出る。少しくらくらする。月が滲んでいる。ここから10分ほど歩いたところに駅があり、私は駅のバス・ロータリーで実家へのバスを待ち、平田君はその駅から電車に乗り一人暮らしをしている下宿先に帰る。
私たちは特にこれといった話もしないまま、月明かりと街灯に薄く照らされた商店街の通りを歩いていく。平田君はなにを考えているのだろう。彼は神妙な表情で、どこか遠くを見ているようだ。眠った街に、二人の静かな足音だけが響く。
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