海は冷たかった

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「千寿丸さん、これかい」 来客の手には、大物の魚とともに竿とルアーがあった。 「か、カナエ、カナエーーー」 保っちゃんは来客の前に飛び出し、ルアーの前に土下座する。 「よ、よく戻ってきてくれた。よかった、よかったよー」  何がどうなったか分からない一同に、船長が説明してくれた。  近くで漁をしていた仲間に無線で頼んでいてくれて、運良くそれが網にかかったそうだ。 「大きい魚ねぇ、アレなんていうの」 「ブリかな」 千秋の質問に、あまり詳しくないのでカンで答えると、さっきまで落ち込んでいた保っちゃんが嬉しそうに言う。 「ブッブー。ざーんねんでした、これはワラサだよー。ブリの一歩手前のヤツさ」  ああ、ブリって大きさで名前を変える出世魚ってやつだ。そのことを千秋に説明すると、「一歩手前ってのが保っちゃんらしいわね」と、小声でこたえた。 ※ ※ ※ ※ ※  服が乾いたので、船長に御礼を言って全員帰途に着く。  保っちゃんはワラサをクーラーボックスにしまい、ルアーをそれはそれは大事そうに胸ポケットにしまった。  帰宅途中、上機嫌の保っちゃんは何度も何度もワラサがかかったときの手応えを話すので、たまりかねたノブが耳を塞いでウルサイって言い返したが、それでもやむことはなかった。 「やれやれ、とんだ船釣りだったな」 そう呟くと、助手席の千秋が楽しそうにこたえる。 「ん、でもいい体験だっんじゃない? 小説家としてはさ」 「……そうだな」 そう思うしかないか。 ※ ※ ※ ※ ※  それから三日後の平日、早めに仕事が終わったのでともしびに晩酌に行くと、突きだし、じゃなくてアペタイザーとして鯛のカルパッチョが出てきた。 「これ、この間のヤツ?」 マスターに訊ねると、そうだという。 「鯛って、締めてからけっこう持つからね」 ひとくち食べる、たしかに美味い。 「海に落ちた後だとなおさら美味しいでしょう」 「それは言いっこ無し。ところで保っちゃんは来てるの」 「今は奥さんに怒られて謹慎中。明日から来るって連絡があったよ」  ワラサが釣れた経緯を家族に話したところ、娘たちにお母さんに何てことさせるんだとなじられ、奥さんのカナエさんには、私が他のオトコのところに行くわけ無いでしょと叱られたそうな。 「だから、三日間の晩酌禁止って家族に言われたんだって」 「楽しそうな家庭だね」 苦笑しながら、保っちゃん家族がワラサ料理を楽しそうに食べているのを想像する。 少しだけ、羨ましく思った。 ーー 了 ーー
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