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「げっ!」雅春は想像して身がすくんだ。
「司馬遷にとっちゃ、大変な屈辱だったそうですよ。そりゃそうっすよね、『もはや人間として扱われない存在になった』って絶望を綴ってたみたいっす。」
「そりゃそうだろうな。考えると恐ろしい、考えたくもないが。」
「でもね、雅さん。それだけの絶望に晒されながらも、司馬遷は自殺には走らなかったんですよ。」
「ほう、なぜ?」
「彼には、父の遺言でもある『史記』を完成させる使命があったからです。死んでしまっては『史記』を完成させることはできない。彼は仕事が途中のままで終わることをもっとも恥として、耐えて生きる道を選んだんですよ。」
「ほぅ・・」
「そして、ついに全130巻、52万6500字を費やした『史記』を完成させ、彼は“死期”を迎えたんですよ!」
「最後のダジャレはどうかと思うが・・・まぁ、胸を突く話だな。」
「でしょ!僕も先週この話を大学の授業で聞いたときに、鳥肌が立ちましたよ。それでね、マサさん。司馬遷に比べれば、職場で多少上司と折が合わないことや、理不尽な思いをしたりすることなんて、たいしたことなくないすか?」
「おいおい、そこにつなげるのか!」
「そうですよマサさん。ちゃんと前向いて仕事をしないと、司馬遷に申し訳が立たない。」
「それを言うなら、司馬遷が52万字以上の『史記』を書き上げたんだから、所詮2000字程度のクラスレポートでひぃひぃ言ってる良平こそ、司馬遷に申し訳が立たないだろ。」
「あいたた!!そう来ますか!」
などと言いながら、二人はホッケをつまみ、ビールを飲み、焼き鳥をほおばり、ハイボールを飲み・・・と、居酒屋を謳歌した。最初はちゃんと話をしていたが、段々とどうでもいい話になってきて、どうでもいい相槌を打って、仕事とか他のこともなんだかどうでもいいような気分になってきた。これぞ酒の力だ・・・けれど、と雅春は思いなす。
「なぁ、良平」雅春は急に声のトーンを落として良平の名前を呼んだ。その声色には、いつにない真剣さが含まれていることを良平は敏感に感じ取った。
「なんですかいきなりマジな顔になっちゃって」良平は逆におどけた。今は酒で思考力が弱っている、もう今日はただ酔いつぶれたい。
「真剣に聞いて欲しいんだが、あのな・・・」そんな良平の気持ちには構わず、雅春は話しはじめた。
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