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「扉の向こうにはオオカミがいるから、外へ出ちゃ駄目だよ。」
木村雅春の脳裏に、その言葉は度々巡ってくる。
子供のころ、祖母は雅春を一人家に残して出かけるとき、決まってそう言ったものだった。どこかの寓話でも聞いたことがあるような子供じみたオトギだが、実際子供だった彼はそれを聞いて怖くなり、頑なにその言いつけを守っていた。郵便配達人が、郵便物を届けに来てインターフォンを鳴らしても、決して返事をしなかった。郵便配達人の振りをしたオオカミだと、本気で信じていたのだ。
その子供騙しも、雅春が幼稚園に入る頃には薄々嘘だと気付いてきて、小学校に入学するときにはまるっきり嘘だと分かっていた。けれども、祖母はいつでも真剣に、「扉の向こうにはオオカミがいるからね」と彼に執拗に言いつけて外へ出て行った。
そんなこと言って自分はガッツリ外へ出てるやん、とも思ったけれど、そんなツッコミは決してせず、「うん」と従順に頷くという演技をしていた雅春はませた子供だった。おばあちゃんにとって、いつまでも「あどけなくて、可愛い孫」でいてあげないといけない、と思っていたのだった。
その一方で、祖母のそんな迫真の表情での脅しを幼少時代から刷り込まれた彼は、一種のサブリミナル効果として、今でも、外へ出ようと玄関のドアを開けるときに、もちろんオオカミなんていないと分かっているのに、恐怖が鎌首をもたげる。祖母にかけられた、ある種の呪いのようなものだ。
そして、比喩的な意味合いにおいても、「扉」は存在した。何か新しいことを始めるとき、何か新しい世界へ飛び出すとき、雅春はそこに目に見えない「扉」の存在を感じ、その外へ出ようとすると、足がすくむのであった。
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